仙台ゲーテ自然学研究会「プロテウス」創刊号。1993年3月。
シラーとゲーテ 『色彩論』
松山雄三
序
ゲーテの『色彩論』の成立過程において、シラーが与える思想的・思考方法論的な助言は、当該論文の学説と構成そのものに関わる強い影響をゲーテに及ぼすことになる。自然科学研究におけるゲーテの基本的な姿勢は、人間の知覚に信頼を置くことから始まる。なぜならば、ゲーテは自然が人間の知覚を通してその不可思議な仕組の秘密を打ち明ける、と捉えるからである。しかも、ゲーテは、知覚を通して、自然の「語り」を感得するためには、自然に対する一義的な働きかけを排し、また自然を個別化、隔離化せずに、諸々の事象を包摂する自然をそのあるがままに受容し、そしてそのあるがままの自然の中に、有機的な連関を示す自然の仕組を包摂的に捉えなければならないと見做す。それ故、このようなゲーテの姿勢は、ゲーテの同時代にあって既に支配的であった、ニュートンに代表される唯物論的な世界観とは本質的に異なるものである。色彩の領域におけるニュートンの関心事は、光が有する物理学的な特質から色彩現象を解明することにあった訳であるから、およそ一世紀後にゲーテが色彩の生理学的・心理学的な作用だけを扱っていたならば、ゲーテの『色彩論』は科学研究の世界でもっと容易に市民権を得られたとも思われる。しかし、G.ベンが指摘するように、闘いはゲーテの側から一方的に、しかも執拗に仕掛けられた。
ニュートン的実存とゲーテ的実存は、相互に否定し合うことなく、ずっと共存できるかもしれない。しかし、ゲーテの側から、数学的正さから言えば、ゲーテ以外の誰にとっても疑問の余地のなかったニュートン理論を、絶えず攻撃し、疑い、こきおろすという、純粋に性格学的な面から見れば、かたくなとも言える執拗な反駁が始められた。[i]
しかし、ニュートンの実験と理論に対する執拗な攻撃や、ニュートンの実験についての明らかな誤解のせいで、ゲーテは同時代の博識を誇る人々の輪から弾き出されてしまう。親しい友人たちさえ、科学研究の方法論に関しては、ゲーテのもとを離れてしまうが、そのような四面楚歌に近い状況の中で友人シラーだけは違っていた。G.ベンは次のように述べる。
親友シラーだけは、書き残されているものから窺えるように、天才の素直さで素早く問題となっている中心点を捉えていたのである。[ii]
ニュートンの科学研究の方法論に反対する立場を取るゲーテは、自然科学の研究において非常に厳しい状況に置かれていった。しかも、それにもかかわらず、自然内人間とも言うべきゲーテは、彼の自然科学論が人類の発展史において必然性と意義を秘めるものであることを、執拗に示そうとする。またシラーは、そのようなゲーテの姿勢に、人間存在の本質に関わるものを詩人の直観で捉えている。D.クーンは、「ゲーテが人間をも自然科学の視界に引き入れた」ことに、ニュートン的科学論との本質的な相違をみており、更に双方の科学論の軋轢の決定的な要因になっていることを指摘する。
光と色彩と眼が不可分のひとつの統一を形成し、そして色彩の感性的・道徳的作用が、観察や物理学的な実験と全く同様に、色彩論に属するものであるというゲーテの確信は、絶え間無い研究の過程で確固たるものになる。彼はここでも人間を自然科学の視界に引き入れたのである。彼の結論は支配的なニュートン光学に異論を唱えることになり、それ故に、彼は従来の研究学説と対立しなければならなかった。このことが彼を色彩論の歴史へ導き、その記述は彼にとって、人間の思考方法と研究方法について考察を加える切掛けになる。この問題を、ゲーテはシラーと論じたのだった。[iii]
自然科学者のサークルからは無視に近い冷やかな扱いを受けるゲーテと、彼の自然科学論の数少ない理解者のひとりであるシラーによるこの問題についての検討は、特に、1798年1月と2月に集中する。この僅か二ヶ月間に、ゲーテは「人間の精神の歩み」を象徴的に示す科学の歴史に寄せる関心を明らかにし、シラーは『色彩論』の叙述に哲学的な思考を積極的に援用することを助言する。その結果、ゲーテはシラーから哲学的な思考という方法論を徹底的に学び、カントのカテゴリー論に倣って、『色彩論』に関する「図式」を幾つか作り上げてはシラーに助言を求め、更に人類の発展史において特徴的な諸々の科学的学説について明確な認識を得ることができ、当該論文執筆の構想を練り上げていく。そこで本論においては、ゲーテとシラーの往復書簡、しかも主に1798年1月と2月に交わされた書簡に窺える『色彩論』に関する両者の思想的交換の跡を辿りながら、ゲーテの自然科学研究の方法論とそれと共に窺える彼の自然観について、更にそれらの形成に強い関わりを持つ彼の歴史意識について、シラーの哲学的思弁との関わりから考察を加えていきたい。
T
ゲーテは1798年1月に入ると長年あたため続けている色彩論の構想を頻繁に口にするようになる。しかも、ゲーテはシラーとの間で交わされる思想交換を通じて、彼の色彩学的思想の基盤をより一層強固なものにしてゆく。1月10日付書簡の中で、ゲーテは色彩論の再検討に携わっていることをシラーに告げ、一篇の小論文を同封する。『客観と主観の仲介者としての実験』と題するこの論文の中で、ゲーテは自然科学研究に携わる者の研究姿勢と彼の自然観について述べる。ゲーテは自然を観察する際に、自然が包摂する諸々の事象をそのままに、まさにあるがままの自然を受容し、しかも観察者の独断を可能な限り回避して、他の多数の観察者の観察経験をも考慮に入れて、自然を捉えようとする。それ故、ゲーテは自然現象の観察経験の復元である実験を多面的に数多く試みることが「自然科学研究者の本来の義務である」と指摘し、この「本来の義務」を果たすことにより、「自然科学研究者の最高の義務」である「高級な経験」の世界に到達することを、自然科学の研究に携わる者に要請する。
このような実験を行い、このような経験をしたときには、何が直接にそれに結び付くのか、何が最初にそれに続けて起こるのかを、どんなに詳しく研究しても、充分ということはないだろう。[・・・・・] それ故各々の実験の多様化が自然科学研究者の本来の義務である。(AV 16,852.)
多数の経験から成り立つような一つの経験は、明らかに一層高級な経験である。それは、無数の個々の計算例が言い表される公式を提示する。このような一層高級な経験に達しようと努力することを、私は自然科学者の最高の義務と見做す。(AV
16,852.)
しかも、ゲーテにとって、人間を含めて、自然の中に存在するもの全てが自然に包摂されつつ、相互に有機的な結び付きに支えられて存在するのであった。
生きている自然においては、何ものも全体との結び付きの中に立たないものは生起しない。(AV 16,851.)
自然における全てのものは、特に一般的な諸力と要素は永遠の作用と反作用の中にあるだから、それぞれの現象について、それらが無数の他の現象と結び付いている、と言える。(AV 16,851.)
シラーは1月12日付書簡で、この小論文についての詳しいコメントを後日の約束事としたうえで、ゲーテの自然史研究に理解を示す。
貴方の論文は、素晴らしい表象と同時に貴方の自然史研究の方法についての説明を含み、そして個々の事柄に法則を与えようと努めながら、全ての合理的経験の最高の事柄と必要条件に触れております。[・・・・・]対立的な方法は自然界と悟性界の本質的な相違を全く見誤りますし、それどころか、それは単にその表象を私たちに事物の中で見させたり、逆に見させなかったりすることによって、自然全体を片づけてしまいます。そもそも、一貫して多様に定められたものである現象や事実は、単に決定的なだけである法則には合わないのです。(AV
20,491f.)
自由の詩人シラーの鋭い批評眼は、従来の科学研究における方法論の誤謬を見逃さない。
これまで自然科学において、二つの対立的な方法論 (経験論と合理論) で誤りが犯されてきたように思われます。一つは、自然を理論によって制限してきたことであり、他の一つは、思考力を客体によってあまりに制約しようとしてきたことです。(AV
20,492.)
自然の現象や事実を偏狭な理論によって縛り付け、多様であることの自然の自由を剥奪する歪んだ理論偏重の従来の科学研究の方法に対して発せられるシラーの厳しい批判は、ニュートン的科学研究が蔓延る同時代の傾向に対して抱いているゲーテの危惧を的確に代弁するものである。しかも、シラーはこのような歪んだ科学研究の傾向性を是正し、本来の道に戻すために、ゲーテの「純粋な経験」―シラーはこれを「合理的経験」と表現しているのであるが―についての思想に理解を示す。しかし、この「純粋な経験」に関するシラーの詳しい所見の披瀝は後の書簡(1月19日付シラー書簡)まで待たされることになる。
また、ゲーテは科学の歴史にも関心を示すようになり、彼の科学史観を次第に明確に示し始める。ゲーテは彼の同時代に受け入れられ難い彼の科学理論の援護を、過去の自然科学論に求めたのであった。E.シュタイガーは次のように指摘する。
ゲーテは、同時代の人々が彼に拒んでいた支持を、過去の歴史の中に求めずにはいられなかった。そこで彼は古代から現代に至るまでの色彩理論の叙述を計画した。しかし、現在、私たちの手元にあるのは『色彩論の歴史のための資料』だけである。これは全ての時代の自然科学論文の抜粋であり、歴史哲学的、伝記的、文化史的な性格の詳細な省察がそこにちりばめられている。[iv]
また、本論の序文で引用しているように、D.クーンは色彩学の歴史に対するゲーテの関心に言及している他に、ゲーテが生物学や地理学等の分野における先人たちの偉大な業績に学問的な好奇心と畏敬の念を抱いていることに触れ、更に歴史的な流れの中に彼の研究成果を位置付けようと努めているにもかかわらず、ゲーテの自然科学研究の意図に対する19世紀の、時代的傾向とも言える、無理解と偏見が存在したことを指摘する。しかも、D.クーンは、過去の科学的遺産に敬意を払いながら、歴史的発展の流れの中で自分の仕事について考察することを学問に携わる者、特に、科学史家の使命と見做す。
ゲーテが自然と自然についての科学的認識の研究に従事したことに関する理由への問い掛けは、あまりにも考察の視界から消え去っているように思われる。この点では、19世紀の偏見がくり返し影響を及ぼしている。この偏見が、自然科学研究者ゲーテを、我儘な戯れ事に多少なりとも価値を求め、過去と同時代の自然研究の基礎を身に付けていない、独学の素人に仕立てあげたのである。[v]
科学史家は次のような使命を持っている。即ち、その使命とは、発見であれ、発明であれ、特殊な思考領域であれ、新しい方法であれ、再認識された方法であれ、科学的な出来事を、必要な諸条件の中で、周囲の状況の中で、まさしく歴史的なコンテクストの中で見ることであり、それらを発生において、形成と発展において考察し、解説することである。[vi]
1月13日付書簡の中で、ゲーテはシラーに物理学書に窺われる科学者の思想的な傾向と科学者個人の現実的な関わり合いに関心を向けていることを打ち明け、しかも科学者による自然現象の独善的な取扱に対して強い不満と不快感を隠そうとしない。ゲーテは科学的な著書に窺える「科学者の自己投影」[vii]について次のように非難する。
私は今週、いろいろな物理学書を繰り返し読みながら、大抵の研究者が自然現象を、彼ら個人の力を用い、彼らの仕事を実行する機会に使っていることに、気付きました。[・・・・・] 確かに、誰しも、個人的な事情を問題に結び付け、そしてその際にできる限り自分にとって有利になるようにすることが、多かれ少なかれ大事なものです。しかし、このような危険に陥らないようにどのように注意を払えばよいか、検討したいと思います。力を貸して下さい。(AV
20,494f.)
ゲーテの非難の矛先は、自然現象を切り刻んで、その部分的な構成と特性を定量的・解析的に説明するだけで満足し、自然現象が人間に及ぼす生理学的・心理学的作用を科学研究の対象にせずに、しかも、自然全体との関わり合いの中で多元論的に洞察しようとしない科学者に向けられる。例えば、光を粒子に分解する機械論者に、物質をカロリーに換算する、或いは、酸化に結び付けたがる化学者に。特に、ゲーテは数字の魔力に取り憑かれて光の現象を分析的にだけ説明しようとするニュートンの研究方法については、次のように酷評する。
ニュートンが彼の光学の中で測量技師を演じる様子といったら、聖歌隊の指揮者だから、或いは、詩人だからといって、諸々の自然現象を音楽に置き換え、あるいは詩句で表そうとするより、始末におえない。(AV
20,494.)
ゲーテがシラーに述べる次の言葉は、ゲーテの科学研究における基本的な姿勢を明確に表している。
現在、見渡せる限りにおいて、『色彩論』は、正しく取り扱われるならば、それについての講演に関しては、電気についての講演や磁気についての講演より、有利でしょう。なぜなら、色彩論の場合には、記号ではなくて、眼で見ることのできる自然の多様性や作用と関わるからです。(AV
20,495f.)
K. J.フィンクが「ゲーテの歴史観は長年に亘って形成され、少なくともシュトラースブルクでの学生時代にまで遡れるのであるが、科学の歴史についての彼の理論はシラーとの理念の交換にその最も明らかな開始があったように思われる」[viii]と述べるように、自然とそれに包摂されている人間との関係認識に基づくゲーテの自然観は、そのまま彼の科学史観にもストレートに反映していることが、こうして、シラーとの思想的交換の過程において明確に窺われる。
ゲーテの関心は人間の知覚で捉えられる、特に「眼で見ることのできる」自然現象にある。自然現象を分割・分析し、数字や記号に置き換え、感性不在の数字や記号から細分割化されている部分の構成と特性を法則化しようとする科学の他に、まさにもうひとつの科学とも言うべきものがある、とゲーテは主張する。しかし、ゲーテの言葉で注意を要する点は、自然現象の因果関係を究明するために、言わば、内へ向かう研究方法を、ゲーテは決して否定しているのではないということである。機械論者に窺える一面的な自然認識に対する警告の意味も込めて、ゲーテはもうひとつの科学的認識論の必要性を訴える。ゲーテの真意は、近代科学に窺える偏見を退け、自然と自然観察者である人間との関係が決して確定的なものではなくて、不確定的な要素を含んでいるために、多面的な関係が成り立つことの認識から出発して、純粋な自然現象を捉える科学的認識に達することにある。
自然と自然観察者である人間の関係について、ゲーテは既に1月6日付シラー宛書簡の中で明確に彼の所見を述べている。
私たちが認識しているのは自然ではなく、自然は私たちの心の状態と能力に従って、私たちによって受け取られるものであることを、私は認めたいと思います。木になっている林檎に対する子供の食欲から、ニュートンの頭の中で彼の理論に至る考えを喚起したと言われる林檎のケースまで、もちろん、観照の非常に多くの段階が存在するでしょう。(AV 20,488)
シェリングの哲学思想に関して述べられるこの書簡の中で、ゲーテは彼の中庸な自然認識論を展開する。
私が内へ向かう有機的な自然の合目的性の概念に如何に執着しているか、ご存じでしょう。しかし、外からの規定と、外へ向けての関係は否定されません。[・・・・・] いつも思うのですが、外から内へ向かう一派が事物の神髄に到達できなければ、内から外へ向かう他の一派も恐らく事物の実体に達し難いでしょう。(AV
20,489.)
「自分自身と一致し、人間を取り巻く世界と一致して」[ix]生きられる「自然状態」を離れてしまった人間と自然の関係を問うシェリングの思想に対して、ゲーテは自然の内に向かう人間の在り方と、自然の外に向かうそれとを求める。しかし、ゲーテの時代にあっては、そしてそれは我々の現代についても言えることであるが、自然と人間の関わり合い方は、人間による自然の一義的な細分割化と専有化の道を際限なく辿っている。近代以前に支配的であった神を頂点とする自然と人間の関係は、ニュートン的科学理論をも包摂するカントの哲学的思想を初めとする近代的思想によって、自然と人間の協調的関係に移行するかにみえた。しかし、神の支配に対して人間の自立精神の覚醒を啓蒙要請する近代思想は、人間による自然の専有化を主張して憚らない亜流をも生み出したのである。しかも、この近代思想の亜流は、近代精神の本来の唱導者であり、担い手である人間のもとを離れ、独り歩きを始め、否、それどころか、科学万能主義に見られるように、自然と人間の相互友好的な関係を寸断し、それぞれ個別的にその支配下に組み込みつつあるのである。それ故にゲーテの関心は、近代的と一般に安易に見做されている科学的な認識とは異なる領域、つまり人間の五感で捉えられる、特に、眼に映ずる自然現象を通じて、その自然現象を惹起する根源的原理の究明に向けられている。
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ゲーテは『年代記』の「1798年」の章で次のように述懐する。
『色彩論―歴史編』がどのような順序と部門に分けられて叙述されるかということが、年代順に充分に研究された。そして科学書の個々の著者について研究された。また学説そのものも詳細に検討され、そしてシラーと共に徹底的に論究された。(AV 11,671)
ゲーテのこの言葉からも、『色彩論―歴史編』の構想が本格的に練られ、その概要がほぼ固まった時期を1798年前後と特定することができる。しかも、シラーの誠意溢れる貴重な協力は、この『年代記』で触れられている以上のものであることが、両者の書簡の交換から窺える。特に、1798年1月下旬になると、ゲーテは色彩論に関する歴史書執筆の意志を明確にし、そしてシラーはカントの哲学的思想の研究とその応用をゲーテにしきりに勧めるようになる。この思想的な交換の結実のひとつとして『色彩論―色彩論の歴史のための資料』の完成が、そして『色彩論』全般にわたる思考方法論的確立があると言える。D.クーンは次のように指摘する。
<シラーの論理的思考を好む精神>のおかげで、ゲーテは方法論的な問題に対する意識を充分に喚起される。彼は色彩論について幾つかの図式を作り上げ、これをシラーと口頭や書簡で検討する。確かに、既にこれ以前に、ゲーテは彼の自然科学研究の諸原理の明確化に努めている。即ち、ゲーテは既に1790年にはカントの『判断力批判』を研究しているし、1792年には『客観と主観の仲介者としての実験』の中で彼の思想を示している。しかし、シラーとの邂逅によって、そしてシラーによるカント理念の仲介によって、初めて哲学はゲーテにとって―いずれにせよ、ある程度まで―彼の研究の方法論的完成のための助けになるのである。[x]
シラーは1月19日付書簡の中で、以前の約束通り、ゲーテの論文『客観と主観の仲介者としての実験』と『経験と科学』に触れながら、ゲーテが述べるところの三種類の現象―「一般的経験」と「合理論」、そして「合理的経験」―の説明に、カントのカテゴリー論に倣う哲学的な思考方法の応用を勧める。
シラーは「客観的な自然法則と一致している純粋な現象」を認識するための第一段階として、「一般的経験」と「合理論」について、(一)量、(二)質、(三)関係、(四)様相の四項目にわたって検討を加える。なぜなら、シラーの解釈では、「合理的経験」は「一般的経験」と「合理論」の統合からのみ生じるものであるから。
私の判断によりますと、客観的な自然法則と一致している純粋な現象に、合理的経験だけが突き進めるのです。しかし、もう一度繰り返しますと、合理的経験自体は、直接、経験から始まるのではなく、合理論が特にその間に横たわっているのです。第三カテゴリーは、常に第一カテゴリーと第二カテゴリーの統合から生じるのです。(AV
20,499.)
シラーはまず「一般的経験」と「合理論」について次のように考察する。即ち、「一般的経験」は一回限りで、他の経験と比較することなく、偶然的に、一定の現実の枠内だけで生じる。また、科学的でないために、科学的誤謬とは無縁であるが、知覚を通して得られた知識を必然的法則に高めることもない。他方、「合理論」は複数回の生起が可能であり、思考力を働かせて、他の諸々の現象と比較し、因果律に従う科学的な方法を選択する。しかし、思考力に依存するために現実から遊離してもいる。また、思考力の自由と共に恣意が生じるために、科学を破壊する可能性もある、と。
次に、シラーは「一般的経験」と「合理論」を相互補完的に統合するかたちの「合理的経験」について考察を加える。
「合理的経験論」は、
(一)量的に「多数の中に統一を作り出す」、
(二)質的に「常に制限する」、
(三)関係的に「現象の独立と因果律を尊重し、自然全体を相互的関係においてみる」、
(四)様相的に「必然に向かって突き進む」(AV 20,499f.)
ここでシラーが示す認識論は決して彼独自なものではなく、まさしく、カントの忠実な後継者としてカントのカテゴリー論を当てはめて、中庸な精神が生み出す自由な思考力によって、感性的な知覚能力の純化と純粋に科学的な認識への到達を求める。
カントの哲学的思考の応用を勧めるシラーの助言に対して、ゲーテは謝意と同意を示し、積極的にカテゴリー論を受け入れようとするが、それはシラーにとって必ずしも満足のゆくものではなかった。ゲーテのカント哲学思想の受容にあたって、シラーの思想的貢献を力説することに懐疑的な見解も見られるが、カテゴリー論の援用をゲーテに認識させるにあたってのシラーの存在を軽く考えることはできない。確かに、ゲーテとシラーの交友以前に、ゲーテがカント哲学に非常に関心を示していることは明らかである。ケルナーは1790年10月6日付シラー宛書簡で、カント哲学に対するゲーテの強い関心について述べる。
ゲーテはここに一週間いました。私は多くの時間を彼と一緒に過ごしましたし、すぐに彼と親しくなれました。思っていた以上に彼は饒舌でした。私たちがどこでもっとも多くの接点を見出したか、君はほとんど推測できないでしょう。カント以外のどこでもありません。ゲーテは『判断力批判』に彼の哲学の糧を見出したのです。」[xi]
ゲーテとカント哲学の邂逅については、E.カッシーラーが『ゲーテとカント哲学』の中で従来の大勢的な見解に異義を唱える。
長いこと文学史的研究は、シラーとの友情がゲーテをカント哲学に近づけたと判定してきたし、今日もまだこれが支配的な見解であるようにみえる。しかし、この見解は受け入れ難い。ゲーテの眼をカントに向けて開かせたのはシラーではなかった。シラーとの親しい交際のずっと以前に、ゲーテはカントに至る彼自身の道を発見していたのである。[xii]
E.カッシーラーはその「決定的な証拠」として、前に引用したケルナーの書簡(1790年10月6日付シラー宛)とゲーテの論文『新しい哲学の影響』の中で述べられているゲーテ自身の言葉を挙げる。E.カッシーラーはカント哲学に触れたゲーテの喜びを適切に捉え、次のゲーテの言葉を引用する。
『判断力批判』が私の手に入った。私の一生で最も幸福な時期は、これのおかげによる。この著書の中で、私の非常に多種多様な関心ある問題が相並んで取り上げられているのを知った。芸術的生産と自然の生産が同じ方法で扱われ、審美的判断力と目的論的判断力が、相互にたがいを明らかにしている。(AV
16,875.)
私の考え方が必ずしも著者の考え方に結び付かなかったとしても、また、ところどころに何かが欠けていると思われたとしても、それでも、この著書の中心的な思想は、私がこれまでに産み出したもの、行動、思考と、全く類似している。芸術の内面的生と自然の内面的生が、そして内から外へ向けてのそれらの相互的な働きかけが、この著書の中で明確に述べられていた。(AV
16,875)
しかも、これらのゲーテの言葉から、ゲーテがカント哲学との邂逅を手放しで喜んでいるだけでなく、両者の思想の根源に横たわる微妙な不一致を早くも本能的に感じ取っていることも窺われる。つまり、ゲーテはカントの哲学的思想から、例えば、目的論的な思想のように、得るところがあるのではあるが、シラーと異なり、カントの信奉者には生涯なれなかった。E. カッシーラーはカント哲学に対するゲーテとシラーの関係を考察し、「カントの学説は、ゲーテ個人に対しては、シラーに与えたよりもはるかに少ないものしか与えることができなかった」[xiii]と述べ、その相違を次のように分析する。
シラーにとって、彼の青年時代の激動を終わらせたのは、カント哲学の研究だった。[・・・・・] カントの理論はシラーにとって、規律を与える大きな力となった。それはシラーに知的安定と倫理的成熟を与えたのである。ゲーテの一生にあっては、カントの哲学もその他の哲学も、そのような役割を演じることはなかった。ゲーテは常に、詩人としての才能に依存し続けたし、早くから彼の生存を満たし、形成したのは、その詩人としての才能であった。[xiv]
それ故、カントの哲学的思想に自己の思想との類似性を見出すものの、カントの信奉者にはなれないゲーテにとって、カントのカテゴリー論が必ずしもスムーズに受け入れられるものではなくても、不思議ではない。そこで、カントの熱烈な信奉者であるシラーは、カテゴリー論の理解に難渋するゲーテに、カントの哲学的思考を説き、その援用を盛んに勧めるのである。
一方、ゲーテはシラーの助言に謝意を表するとともに、色彩論の歴史に対する関心をますます明らかにする。1月20日付書簡で、ゲーテは次のように述べる。
<色彩論の歴史>のための簡単な草稿を同封します。そこでは人間精神の歩みについて素晴らしい所見を述べることができるでしょう。人間の精神は、その道を完走するまで、ある種の円を描いて回ります。貴方がご覧になる歴史全体は、現象に応じるだけの低級な経験と、原因を素早く捉えようとする合理主義の周りを巡っており、現象の純粋な組立の試みは見受けられません。それ故、歴史は既にそれ自身で、私たちが何をしなければならないかを、私たちに描いて見せるのです。(AV
20,501f.)
この書簡から、単に色彩論の歴史に対するだけでなく、科学全体の歴史に対するゲーテの捉え方が、そして広い意味で、ゲーテの歴史的意識が窺える。ゲーテは一種の歴史的円環説の立場を取りながら、科学の歴史を「人間精神の歩み」の軌跡として捉え、その研究の意義を人間智のための啓蒙的な面に見出す。またゲーテの歴史的批評眼は、科学の世界に蔓延る「現象に応じるだけの低級な経験」と「原因を素早く捉えようとする合理主義」を非難する。この書簡は、1月19日付シラー書簡に対する返書でもある訳であり、哲学的な思考方法の習得を勧めるシラーの助言にゲーテが応じようとしていることが、言葉の端々から窺える。
しかし、シラーは1月23日付書簡で、再度、哲学的な思考に基づく論述の必要性をゲーテに強調する。また、それと共に、シラーは、ゲーテの科学史観に同意を示し、光学の歴史の研究が単に光学という一科学の領域に留まらずに、他の科学の世界における、いや、それどころか、人間の思想的発展を探る上で重要な貢献を果たす普遍性を有するものであることを述べる。
光学の歴史についての簡単な図式は、学問と人間の思考の普遍史についての多くの重要な原則を含んでおります。そして、もしもこれを仕上げるつもりならば、多くの哲学的な叙述がなされなければならないでしょう。(AV
20,502f.)
この書簡に対してゲーテも、既に前の<色彩論の歴史>のための草稿に手を加え済であることを、またその修正原稿の送付を伝えているところをみると、シラーが指摘する哲学的な思考と論述の欠如を、ゲーテ自身も認めていることが窺われる。
1798年1月下旬の一週間程、ゲーテとシラーの間で書簡の交換は続けられるものの、シラーの健康上の理由もあってか、鋭い追求に至るほどの問題提議は表面的には行われていない。
これまで考察を加えてきたゲーテとシラーの書簡から窺えることは、両者とも自然現象の多様性に自然の本来的な姿を見出し、それ故に自然現象を研究の対象に選ぶからには、一面的・偏狭な理論による法則化だけを金科玉条の如く掲げる研究方法を排し、多元論的な考察こそ相応しいと認識していることである。しかも、このような自然観を契機にゲーテとシラーが相互理解を一層深めるのも、両者の本質的な生の哲学からすれば当然のことでもある。ゲーテは「眼で見ることができる自然の多様性」を、シラーは「因果率と現象の独立性」を、つまり自然内人間ゲーテと自由の詩人シラーは共に自然に人為的暴力を加えることなく、個々の自然現象の独立性を自然の全体性との相関的関係において捉えようとするのである。ここに一義的に分割を得意とする近代の機械論的思想との決定的な相違が存在する。
V
1月下旬から2月上旬にかけて特に書簡の交換はなかったが、その後に、ゲーテはシラーの助言にますます強く触発されて、哲学的な思考方法の習得に努める。ゲーテ自身も次のように哲学的な思考に対する関心を吐露する.
哲学が私にとってますます価値あるものになってきます。なぜなら、それは私を私自身から分けることを、日々、私にますます教えてくれるからです。私がこのようなことをできるのも、私の本性が、分割された水銀の玉のように、たやすく、すぐに、また元の玉に戻るからです。(AV 20,523)
そして哲学的な思考方法に対するゲーテの関心は、ベーコン的経験主義と、反ベーコン主義的立場から出発するニュートン的経験主義の本質的相違の認識となって表出する。2月10日付シラー宛書簡のなかでゲーテは哲学に対する一層の関心を明らかにした後で、ベーコン的経験主義に基づくR.ボイルの著書に言及する。ゲーテがボイルの研究方法に賛意を送る理由は、ボイルの多面的な科学的考察方法の認識と、リベラルな自己洞察に基づく研究姿勢にある。
ボイルは、彼が取り扱う化学的なものに対しては勿論のことであるが、説明の仕方に決然とした傾向を持つとともに、素晴らしいリベラルな考え方をする。このリベラルな考え方は、異なる現象には異なる表象様式が適することを、彼に洞察させている。自分の研究の不完全なことを、彼は明確に認識しており、この点で彼の叙述は非常に誠実です。(AV 20,523)
さらに、ゲーテはボイルをベーコン的経験主義の忠実な唯一の後継者と認めたうえで、これと反対の立場を取るニュートンの「反ベーコン的」な研究姿勢を非難する。ニュートンの一義的な理論科学化の傾向に対するゲーテの非難は同書簡の他の箇所にも窺える。
ニュートンは明らかに彼の学説体系の弱点を知っていたのである。自分の行っていることに確信を抱きながらも、この確信のなかでそっと打ち明けて弱点を暴露する者のように、ニュートンは彼の実験について論じている。そうかと思うと、彼は非常に表面的なものだけを取り出して、仮説を捏造し、彼にとって都合の悪いものについては、沈黙し、あるいはごく僅かしか言及しないのである。(AV 20,522f.)
ベーコンとボイルについての言及が、ゲーテの反ニュートン的思想に起因するものであることは明らかである。しかも、もしも、ゲーテによるニュートン批判に、いささかゲーテの生理的な嫌悪感に近いものしか読み取れないとするならば、それは表面的な考察に過ぎないのであって、ニュートンが示す研究姿勢はゲーテにとって、いわゆる実験誤差などと言って許容される範囲内のものではないのである。
こうしてシラーの熱心な言葉にも助長されて、哲学に対するゲーテの関心は彼の色彩論の思想的構成と論述方法の徹底的な見直しを彼自身に迫ることになる.2月14日付シラー宛書簡のなかで、ゲーテは次のように述べる.
あなたがびっくりなさるものを、色彩論についての色々な事柄と、カテゴリー論に従って立てられた色彩論についての仮説的な文を送ります。このような仕事が私に似つかわしいものでないとしても、学問的にあなたと競い合い、このことについてあなたの関心をもっと引き起こそうとする私の意図を分かって下さい。なぜなら、やっと今、全体の非常に明確な描写に辿り着いたからです。あなたの手をお借りして、この論文は間もなく別の姿になることでしょう。(AV 20,526)
またゲーテは、色彩論を三部構成にしてみたことを述べ、シラーの助言を求めている。この書簡のなかで改めて窺えることは、ゲーテの歴史、特に科学史に対する強い関心であり、科学的研究における科学者個人の道徳的姿勢の重視、つまり具体的にはニュートン的な研究姿勢に対する批判である。
この専門分野(色彩学)の文献史全体において、いかなる名前も私にとって単なる名前ではなくなるように、研鑽を積みたいと思います。その暁には道徳的な性格が科学的な作用とまったく不可分的になります。その際信じられないことですが、ある種の人々は常に個々の実践的な欲求からだけ出発し、この欲求を満たすために、一つ一つ長いこと特定の点に留まり、そして一般に仮説と理論を共に掲げて急行するので、科学は非常に妨げられているのです。(AV 20,726)
カントのカテゴリー論を援用したゲーテの叙述は、哲学的な思考の導入を勧めるシラーの助言にも沿うものであるが、内容的には決してシラーを満足させるものではないことが、2月16日付シラー書簡から明らかである。シラーは不首尾に終わっているゲーテの論述に言及して、その失敗の原因が「解説の仕方より資料」にあると言いながらも、論述の方法についても、婉曲的に、かつ誠意を込めて、その思考的組立の誤謬を指摘する。シラーはまずカテゴリー論の応用の必要性を説くことから始める。
そのように種々雑多な経験的素材を、徹底的な完全性への要求を掲げる一つの型に従って取り扱うことは、間違った企図です。(AV 20,528)
シラーが何故このような初歩的な事柄から説き始めなければならないかは、明らかである。シラーはゲーテによる論述の混乱の原因が考察対象の選択の誤謬と考察者自身の主観の動揺にあることを見抜いているからである。
カテゴリーの試論が行われ、役立てられるには、それは色彩論の最も一般的なものの最も単純なものでなされなければならない、と思われます。さらに、混乱が生じた理由は、あなたが必ずしも問題の同じ主体の立場にいるとは限らずに、一方のカテゴリーでは光を思い浮かべ、他のカテゴリーでは色彩を思い浮かべていたからです。(AV 20,528f.)
そこでシラーは次のようにカテゴリー論の適用による若干の論述を例として示す。つまり、質のカテゴリーとして、「色は肯定的な独自なエネルギーとして作用するのか、あるいは制限的な光エネルギーとしてのみ作用するのか」、次に関係のカテゴリーとして、「(一)色は光の偶有性に過ぎず、それ故実体のないものなのか、(二)色は光の作用に過ぎないのか、(三)色は光と、光とは異なる実体である作用因Xとの相互作用の産物なのか」(AV 20,529)と。
こうしてシラーは自らの論述によって哲学的な思考の組立を教示しながら、ゲーテの色彩論の構成の仕方に対する思考的姿勢の誤謬をまさに論理的に納得させてゆくのである。しかも、最後にシラーは色彩論の資料の処理について、これを三つの部門に分けて取り扱うことを、ゲーテに勧める、つまり、「(一)光と闇の関係で、(二)眼との関係で、(三)色が現れる物体との関係で。」(AV 20,530))
ゲーテがシラーの助言に心から感謝し、それを受け入れようと努めていることは、2月17日付書簡からも明らかである。ゲーテはシラーの指摘通りに、彼の論述において「必ずしも、同じ主観であり続けなかったこと」と考察対象の非限定性による欠陥を認め、さらに、シラーが示す三通りの考察のあり方を受け入れる。
あなたもいみじくも指摘なされているように、あの論述の主たる誤謬は、私が必ずしも同じ主観であり続けなかったことです、即ち、私は光を取り扱っていたかと思うと、色彩を扱っており、また、一般的なものを取り扱っていたかと思うと、特別なことを扱っていたことによるのです。[・・・・・] 私の区分は、あなたが望んでいるものでもあります。つまり、それらは、(一)眼との関係で生理学的な区分、(二)光と闇の関係で物理学的な区分、(三)私たちの身体に現れる化学的な区分なのです。(AV 20,531)
ここに、「色彩論」における三通りの部門に分けて論述する方法、つまり、「生理学的色彩」と「物理学的色彩」、そして「化学的色彩」という部門別にそれぞれの色彩現象を考察論述する方法が、確立されたことになる。しかし、ゲーテが三通りの区分による色彩論の考察に到達する要因は、シラーと異なる。シラーにあっては、それはカント哲学のカテゴリー論の応用であり、他方、ゲーテにあっては、色彩論に関する歴史研究の成果なのである.ゲーテは次のように述べる。
しかし、そもそも私をカテゴリーに従うあの図式へ導いたものは、否、それどころか、あの図式に基づく叙述に固執するように私を仕向けたものは、色彩論の歴史です。それは二つの部分に分かれております、つまり、経験の歴史と意見の歴史に。(AV 20,531)
ゲーテの研究の対象は、人間の眼で見える色彩、つまり人間の知覚で捉えられる自然場象であり、そのために客観性だけを追求するニュートン的な科学研究の方法と対立しなければならなかった。しかも、このニュートン的な分析的・数理学的科学研究の方法はゲーテの同時代にあっても圧倒的に学問の世界を支配していたために、ゲーテは同時代の科学者から白眼視されていたのだった。そこでゲーテは過去の色彩論を検討考察し、それらの学説から助力を得ることが必要であると見做したのである。そして色彩論の歴史の流れを探究して行く過程で、ゲーテは彼の色彩論のバロメーター、つまり「生理学的色彩」と「物理学的色彩」、そして「化学的色彩」という三通りの面からの研究方法を確立したのである。なぜならば、前述しているように、ゲーテは色彩学に関する諸々の学説がすべて同じ研究理念に基づくものではなく、その研究方法の理念において二つの流れに、つまり「ベーコン的な意味における経験主義」に基づく研究方法を採っている研究者(「経験の歴史」)と、「ニュートン的な意味における理論」[xv]至上主義の研究者(「意見の歴史」)に大別されて考察されなければならないことを、認識するに至ったからである。
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ゲーテが色彩論の歴史書を執筆するにあたって意図することは、諸学説の単なる即物的に過ぎない歴史的記述ではなくて、哲学的考察に基づく、所謂、歴史哲学的な要素や、詩人の詩的資質にも負うところの、学者の逸話も織り混ぜた伝記的な要素、そして時代精神を反映する文化史的な要素を含む、人類の発展の歩みの描出なのである。E.シュタイガーはゲーテを歴史家、あるいは歴史哲学者と見做すことに非常に慎重であるものの、次のように述べる。
これ(『色彩論の歴史のための資料』)は、すべての時代の自然科学論文からの抜粋であり、歴史哲学的な、伝記的な、文化史的な性格の詳細な省察がそこにちりばめられている。このような断片的な論考の形ではあるが、それらは実に貴重なものである。ゲーテが精神史的な諸々の問題についてこれほど雄弁に語ったことはないし、こんなに真剣に歴史意識を得ようとしたこともなかった。[xvi]
しかも、ゲーテが、歴史的事象を単に即物的に列挙するだけの歴史研究に疑問を抱き、色彩学の分野にとどまらずに広範に、科学的世界における諸々の歴史的事象を、多面的に探究する必要性を認識し、その実践として色彩論に関する歴史的著書の執筆を決意する過程において、シラーがカントの歴史哲学的思想から決定的な影響を受けている彼の歴史観に基づいてゲーテと思想的交換を行うことは、ゲーテの歴史的意識の芽生えを益々促すことになる。シラーがカントの歴史哲学的思想に触発されて、歴史学の研究に没頭するようになるのは、1780年代後半のことである。つまり、シラーがゲーテと色彩学について考察を重ねるようになり、その分野に関する歴史の研究においても哲学的思考の必要性を熱心に説くことについてのシラーの学問的な確信の根拠は、10年程前のイエナ移住時期に遡れる。シラーの精神的な発展の過程において、詩人、哲学者、歴史家としての資質が渾然一体となって強い影響を与えていることについて、B.ヴイーゼは次のように述べる。
シラーはひとりで哲学者であり、詩人であり、歴史家であった。例えば、ゲーテの自然科学的な仕事と彼の詩的な仕事が分離されないことを、今日の研究はますます理解しているのであるが、同じことがシラーの場合に歴史的創作と詩的創作の関係に当てはまるのである。[xvii]
シラーの歴史哲学的な関心は既にカール学院時代の彼の論文等にも窺えるのであるが、カント哲学との邂逅によって決定的に喚起されたと言える。シラーは1787年8月29日付ケルナー宛書簡の中でカント哲学との出会についての感激を次のように伝える。
ラインホルトに比べれば、君はカントの軽視者に過ぎません。なぜなら、カントが百年後にはイエス・キリストの名声を持つに違いない、と披は主張するからです。告白しなければなりませんが、彼はカントについて語り、そしてベルリン月刊誌のカントの小論文に早くも触れさせたのです。その中で普遍史についての理念が特に私を満足させました.私がカントの著書をもっと読み、そして恐らく研究するようになることは、かなり確実であると思います。(NA 24,143)
ここで言及されている「普遍史」とは、カントの『世界市民的意図における普遍の理念』と『人類の歴史の憶測的起源』のことであるが、この二論文に加えて『啓蒙とは何か』もシラーの初期の歴史哲学的思想の構築に強い影響を与えることになる。R.ブーフヴァルトは次のように指摘する。
歴史の領域でカントとの対決への第一歩が生じたのであり、その対決は更に深くシラーの精神の発展に介入することになった.[・・・・・] そして早くも最初の影響が非常に重要である.それは、歴史的世界像の構築のために、シラーに歴史についての真に哲学的な考察の可能性と基盤を与えたからである。[xviii]
次のカントの言葉は歴史解釈に哲学的考察を積極的に参入させようとする彼の意図を明確に表すものである。
もしも世界経過がある種の理性的な目的に従っているとするならば、その世界経過はどのようなものでなければならないかという理念に基づいて歴史を著わそうとすることは、確かに奇妙な企てであり、一見したところ、無意味な企てであるかもしれない。[・・・・・] しかし、自然は、人間の自由の戯れにおいてさえ、計画と究極的な意図なしには振る舞わないということを想定してよければ、この理念は結横役に立つかもしれない。[・・・・・]この理念は我々にとって、人間の行動の全く無計画な集合を、少なくとも大体においてひとつの‥体系として描写する手引の役に立つであろう。[xix]
カントの歴史哲学的思想が意図するところは、道徳の主体たり得る人間的精神の達成という自然の創造的究極目的に向けて、人間を陶冶する文化の発現を人類の歴史的発展の過程において肯定的に位置づけ、人間的精神の啓蒙に貢献することにある。高坂正顕は次のように指摘する。
カントに於いて歴史的世界は人倫的世界−ドロイゼンの表現を借りればーであり、人倫的世界は逆に歴史的世界であり得る基礎が置かれたのである。歴史の原理は道徳であり、道徳の具現化は歴史である。それをカントは見落としていない。[xx]
このようなカントの歴史哲学的思想はシラーに、歴史を哲学的に扱うことを、つまり、人類の歴史を自然の創造的意図に沿った人間精神の向上的発展の過程として見徹し、歴史の考察から自然の意図を認識するために、歴史を個々の経験的な出来事の無味乾燥な集積としてではなく、文化的体系のもとに考察する必要性について認識させる。それ故、シラーの歴史研究の姿勢は、歴史的資料の研究に可能な限りの客観的な考察姿勢を要求するのではなくて、歴史の解明に詩的想像力と哲学的考察力の積極的な参加を要請するという、所謂、歴史哲学的なものである。この歴史哲学的な研究の方法において、シラーは何よりもカント思想との根源的な同一性を感じる。
次のシラーの言葉は、歴史研究の意義とその方法についてのシラーの認識を的確に表している。
歴史に対する貴方の低い評価は、私には不当なことに思われます。確かに、歴史は任意的で、空白だらけであり、度々、不毛なものです。しかし、歴史における任意性がまさしく歴史を支配するように哲学的精神を刺激するでしょう。空白と不毛が創造的頭脳に、歴史を実らせることを、そして神経と筋肉をこの骨格につけさせることを、要求するでしょう。(NA 25,2f. 1788年1月7日付ケルナー宛書簡)
私が哲学的真実、或いは詩的真実と呼びたい内的真実は、歴史的真実ほど多くの価値を持たないのか、否か、だけが問われます。ある人間がこのような状況でこのように感じ、行動することを、そして人間にとって偉大な一重要な事実が表現されていることを、このことを戯曲の詩人や長編小説の詩人は行わなければなりません。事件が実際に起こらなかったとしても、内的な一致は、つまり真実は感じられ、認職されるのです。[・・・・・] しかし、まさしく歴史記述者はより一重要なこの種の真実を披の歴史的正当性の背後に置くケースに陥っているのです。(NA 25,154. 1788年12月10日付C.ボイルヴィッツ宛書簡)
シラーにとって歴史研究は単なる年代記の作成ではなく、個々の歴史的出来事の内的真実を体系的に探究し、それらを人類の向上的な発展の流れの中に位置づけることである。哲学的考察と詩的想像力を積極的に働かせて歴史研究を行うことは、歴史的資料の欠如を補うだけでなくて、歴史的資料の中に潜む歴史的真実をも明らかにし、また歴史的資料から意図的に消されている歴史的真実をも照らし出すことができる。シラーは彼の同時代と過去の歴史記述者に必ずしも信頼を寄せていない。なぜならば、シラーは、歴史記述者が学説的な、或いは、時代的な要求によって度々歴史的資料を改ざんしたり、破棄したりすることを、また歴史的資料に振り回されて、歴史に潜む内的統一を見出せないままに、個々の出来事を単に羅列しているに過ぎないことを、充分に認識しているからである。
K. H.ハーンは歴史研究に対するシラーの関心の源泉について次のように指摘する。
偶然に現れる多くの個々の事実を有意義に構成された全体にまとめあげるときに、そしてまとまった像を保持するために、その際に事実によって確認されない彼の思考という建物の隙間を塞ぐことができるときに、哲学的頭脳にとって生じる刺激が、シラーを歴史家の仕事に引きつけたのである。[xxi]
また、B.v.ヴィーゼも次のように述べる。
シラーにとって、哲学的真実と歴史的真実は密接に関わっており、両者をひとつの統一として描写することは、まさしく芸術家の使命であった。[xxii]
このようなシラーの歴史哲学的思想と啓蒙的思想は、1789年5月に行われた彼のイエナ大学教授就任講演の中で明確に示されている。同年秋に、ヴィーラントが主宰する「ドイツ・メルクール」に『世界史とは何か、また何のためにこれを学ぶのか』と題して掲載されるこの講演論文の中で、シラーは生業のためにだけ学問のまねごとを行う者を「パン学者」と名付けて非難し、それに対して「人間として自己を完成すること」(NA 17,359f.)を目指し学問に励む者を「哲学的頭脳」と呼んで、その精神を讃える.
彼(哲学的頭脳)の全ての努力は、知識の完成に向けられている。彼の気高く止むにやまれぬ一念は、全ての概念が調和的全体に向かって秩序づけられるまで、また彼が彼の芸術や学問の中心に立つまで、そしてそこからその領域を満足した眼で見渡すまでは、休息することができない。(NA 17,362)
次に、シラーは歴史研究における「哲学的頭脳」の役割に言及する。シラーは歴史的資料を補正し、歴史的発展の流れを探り出すために、哲学的考察に基づく歴史研究を説く。
実際、我々の歴史は断片の累積以外の何ものでもなくなる。そして、最早、学問の名に値しなくなる。それ故、今や、哲学的悟性が助けに来る。そして哲学的悟性はこれらの断片を人工的な結合によって繋ぐことによって、累積を体系に、合理的に連関する全体に高める。そのことについての論拠は、自然の法則と人間の心との一様性と不変な一致に由来する。その一致は[・・・・・]我々の観察の範囲内に存する最も新しい現象から、歴史のない時代に消滅している現象に遡って推論が引き出され、多少の光が広げられる原因である。類推にのっとって判断するという方法は、他のあらゆる場合と同様に、歴史研究においても強力な手段なである。(NA 17,373)
しかも、哲学的な考察に基づく「類推」によって歴史的な流れを把握しようとする主張は、シラー独自なものではなく、既にカントによって唱えられている。カントは次のように述べている。
(歴史的)資料の欠落を補うために、歴史の進行の中に推測を差し挟むことは許されて良いだろう。なぜなら、遠因として先行するものと、結果として後続するものとは、移行を理解するために、中間の原因の発見にかなり確実な指針を与えることができるからである。[xxiii]
シラーにとって、歴史研究に従事する者の使命は単なる歴史的現象の確認に過ぎないのではなくて、人類の歴史的進歩の概念を探り出しつつ、かつ、その進歩の概念に沿って、人類の歴史的移行の中に個々の歴史的現象を位置づけることにある。それ故、残されている歴史的資料の断片に隠されている歴史的真実を探り出し、かつ、空白になっている歴史的伝達の箇所を歴史的流れに沿って埋めるためには、偶然性に依存する関係ではなくて、体系的な進歩の概念による哲学的・詩的類推が必要なのである。しかし、人類の進歩の概念を歴史的因果律の法則に当てはめて、人間の歴史的行為を考察、類推する場合、歴史的因果律と人間の自由は対立的関係に立たなければならなくなる。それ故、シラーは、カントと同様に、自然の目的論的原理を掲げることにより、人間の歴史的行為を人間の自由意志に基づかせ、かつ、歴史的発展性の流れの中に位置づけることができる。
哲学的精神は、原因と結果として噛み合っているように見えるものを、手段と意図として結びつける傾向を一層強くする。現象が次から次へと、盲目的な偶然から、無法則な自由から脱し、(勿論、彼の観念の中にだけ存在する)一致する全体の列に適当な一部として加わり始める。(NA 17,373)
それ故、哲学的精神はこの調和を自己の内から取り出し、自己の外部のものの秩序の申に移す。即ち、彼は世界の歩みの中に理性的な目的を、世界史の中に目的論的な原理を導入する。この原理をもって、彼はもう一度世界史の中を歩き回り、この大舞台が彼に示すあらゆる現象に目的論的原理を照らし合わせて検討する。(NA 17,374)
シラーは哲学的考察により歴史研究に目的論的原理を掲げ、この目的論的原理にそって歴史的な資料の処理にあたるのであるが、その際に彼の詩的想像力も歴史的資料の欠如を補い、或いは歴史的資料の正当性を判定し、歴史の発展的流れを想像的に描出することにより、彼の歴史研究において決定的な役割をはたすのである。シラーの内に潜む詩人・哲学者としての資質は歴史研究に関わることにより相乗作用を生み出す。実際、シラーにとって詩的想像力と哲学的精神との個別的な独り歩きは、彼に深刻な内面的葛藤をもたらした時期がある。1794年8月31日付ゲーテ宛書簡の中で、シラーは次のように告白する。
私の悟性は本来はるかに象徴的に働きます。そこで私は、概念と観念の間で、法則と感情の間で、技巧的な頭脳と天才の間で、どっちつかずのものとして、淫かんでおります。[・・・・・] 私が哲学的に考察しなければならないときに、詩人が私をせきたて、私が詩作しようと思うときに、哲学的精神が私をせきたてるのです。(NA 20,19f.)
詩的造形の使命に燃える芸術家気質と、観念的理想主義を要請する哲学的精神との間の精神的葛藤に、往々にして苦しむシラーは、この二面的な資質の肯定的特質を引き出し、相互補完的に、かつ、発展的に活動させる、一種の仲介的な役割を歴史研究に求める。シラーは、歴史的出来事という現象を詩的想像力と哲学的考察により、言わば現象面の裏に潜む、あるいは押しやられたり、消されたりしている歴史的真実を探り出し、さらにこの歴史的真実を発展的に理想化することにより本来の可能的な世界像を描出しようとする。ゲーテと色彩論について検討を加えている時期にあたる1798年1月5日付ゲーテ宛書簡の中で、シラーは次のように述べる。
私は、歴史的な素材以外には選ばないことを、自分に言い聞かせるでしょう。任意に見出した素材は私の障害になるかもしれません。[・・・・・] 所与の特定な、制限された資料に生気を与え、温め、いわば沸き上がらせることは、私の力の及ぶ範囲内のことなのです。それに反して、このような素材を客観的に規定することは、私の想像力を押さえつけ、私の意志に反します。(AV 20,485f.)
歴史的資料の処理にあたって、「このような素材を客観的に規定することは、私の想像力を押さえつけ、私の意志に反します」というような言葉は、歴史的流れにおいて時代的な抑圧や個人的な欲求によって隠されたり、削除されている空白を、詩的想像力によって埋めようと意図する、あるいは詩的想像力によって真理の扉を開けようと確信する詩人ならではの言葉である。
また、これまで考察を加えてきたように、ゲーテにあっても、人類の歴史的流れの究明に哲学的考察と詩的想像力の働きを強く要請する傾向が窺える。特に、このような傾向は、『色彩論−色彩論の歴史のための資料』において顕著に窺える。ゲーテは科学者の学説だけでなく、科学者個人の性格や伝記的逸話についても述べる。しかも、この点に、諸々の学説を学派的に、あるいは、時代的に羅列する通例の科学史との大きな、決定的とも言える相違がある。ゲーテは歴史的文学作品の創作を目指しているのではなく、色彩学の分野における発展の歴史の跡を辿ろうとする。しかも、ゲーテは他の学説をその学者の意図するところに従って正確に紹介することが、如何に困難であるかを充分に認識しているのであり、それ故にこそ、ゲーテは色彩学の歴史書そのものを執筆するのではなく、色彩学の歴史を探るうえで必要な歴史的資料を提供し、それらの歴史的資料の判定を個々の読者に委ねようと意図する。ゲーテは『色彩論−色彩論の歴史のための資料』の「序文」で次のように述べる。
重要な学者の考え方と意見は、容易には明言されない。独創性を目指すすべての学説は、容易には把握できず、迅速には抄録することも、体系化することもできない。そこで、歴史記述者はあれやこれやの所見に気を取られる。しかし、その所見は学者の個性によって左右されたり、それどころか、度々深い考えもない発言に過ぎなかったり、学者が話したり書いたりする際に用いる特殊な言葉の特性や、時代の思想的な転換や、諸々の点によって、左右される。(AV 16,248)
ゲーテは、歴史書がその著者の思想なり、欲求なり、あるいは歴史的資料の処理の方法によって、いかようにも自在に変容させられる危険性を孕むものであることを認識しておりながらも、あえて「精緻な叙述」でもなく、「決定的な判断」でもないと自ら断り書きを付した上で、科学者の性格に関する素描や伝記的逸話を載せる。なぜならば、シラーにあって、歴史学研究における「哲学的頭脳」の目的が「人間として自己を完成すること」であると同様に、ゲーテにあっても、歴史的事象の検討考察の意義は人間を知ることにあるからである。
これらの素描は、(科学書の)著者を人間として考察することが、如何に重要なことであるか、このことを想起してもらう契機になれば充分である。[・・・・・] 科学の歴史は、人間によって取り扱われる限り、単に発見と諸説とが羅列されているだけに過ぎない場合とは、まったく異なる非常に重要な様相を示す。(AV 16,249)
『色彩論一色彩論の歴史のための資料』におけるゲーテを、歴史家、或いは歴史哲学者と断定することには慎重であらねばならないが、この論文に窺えるゲーテの歴史的意識は、色彩学という一科学の枠を越えて、諸々の科学の世界における歴史的事象を人間の問題として普遍的に捉え、人類の歴史的発展の流れのなかに、人間精神の向上的形成過程として跡づけようと意図するのである。しかも、ゲーテが捉える歴史における人間の歩みは、あるときは向上的に、あるときは退行的に、人間の恣意のままに進むかに思われても、個人としての人間の歩みを統合・包摂する人類の歩みにとっては不確定性的にではなく、自然の確固たる計画に沿って進んでいるのである。『色彩論』をめぐるゲーテとシラーの相互啓蒙的・相互補完的な思想の交換において、歴史的事象の即物的な記述ではなくて、諸々の文化的要素をちりばめている歴史書の編纂の意義を追究するゲーテと、カントの歴史哲学的思想から強い影響を受けている自然目的論的な歴史解釈に基づき、歴史学の研究に哲学的考察と詩的想像力の援用を要請するシラーには、人類の創造的活動における文化的発現の跡を歴史的に探求しようとする歴史的意識が共に窺われる。
本文中での引用には次の略号を用いた.
AV: Goethes
Werke(Artemis Verlag). AVに続く数字は、巻数、頁数を示す。
NA: Schillers Werke(Nationalausgabe). NAに続く数字は、巻数、頁数を示す。
[i]
Benn, Gottfried: Goethe und die Naturwissenschaften. In: Goethe im zwanzigsten Jahrhundert.
hrsg. von Mayer, Hans. Frankfurt a.M. 1987. S.663.
[ii]
Benn, G.: a.a.O. S.664.
[iii]
Kuhn, Dorothea: Uber den Grund von Goethes Beschaftigung mit der Natur und
ihrer wissenschaftlichen Erkenntnis.
In: Jahrbuch der Deutschen Schillergesellschaft. Bd.15. Stuttgart 1971.
S.168f.
[iv]
Staiger, Emil: Goethe. Bd.2. Zurich 1970. S.423.
[v]
Kuhn, D.: a.a.O. S.161.
[vi] Kuhn, D.: a.a.O. S.161.
[vii] Fink, Karl, J.: Goethes history of science.
[viii] Fink, K. J.: a.a.O. S.75.
[ix] Der
Briefwecksel zwischen Schiller und Goethe. hrsg. von Seidel, Siegfried. Bd.3.
Leipzig 1984. S.303.
[x]
Goethes Werke. (Hamburger Ausgabe). Bd.14. S.607.
[xi]
Staiger, Robert: Goethes Leben von Tag zu Tag. Bd.3. Zurich und Munchen 1984.
S.107.
[xii]
Cassirer, Ernst: Kant, Goethe. Hamburg 1991. S.65.
[xiii]
Cassirer, E.: a.a.O. S.89.
[xiv]
Cassirer, E.: a.a.O. S.89f.
[xv] Fink, K. J.: a.a.O. S.80.
[xvi] Staiger,
E.: a.a.O. S.423.
[xvii]
Benno von Wiese: Friedrich Schiller. Stuttgart 1978. S.355.
[xviii]
Reinhard Buchwald: Schiller. Wiesbaden 1959. S.503.
[xix]
Immanuel Kant: Werke. Frankfurt a. M.(Suhrkamp) 1978. Bd.11. S.47f.
[xx] 高坂正顕「歴史哲学(第一部)」。 岩波講座「倫理学」、第二冊。昭和15。46頁。
[xxi] Karl-Heinz Hahn: Schiller und Geschichte. In: Friedrich Schiller. Hrsg. von K.L.Berghahn.
Kronberg 1975. S.26.
[xxii]
Wiese, B.v.: a.a.O. S.352.
[xxiii]
Kant: a.a.O. S.85.
プロテウス ―自然と形成― 創刊号 発行日 1993年3月15日 編集委員 森 淑仁 松山雄三 土橋 寶 笹田博通 三木 博 発行 仙台ゲーテ自然学研究会 連絡先 東北大学教育学部 教育哲学研究室(笹田博通) TEL 022(222)1800 (2605) 印刷所 東北大学生協印刷・プリントコープ |