仙台ゲーテ自然学研究会「プロテウス」第13号、20113

 

 

シラー:ヘルダーとの邂逅

 

T 故国出奔(1782)からワイマール移住(1787)まで

U シラーの『哲学的書簡』をめぐって(1)

―完全性の思想―

V シラーの『哲学的書簡』をめぐって(2)

―愛の哲学―

W ヘルダーの『愛と自己』をめぐって

―愛と友情における自己―

                  

松山雄三

 

T 故国出奔(1782)からワイマール移住(1787)まで                     

Fr.シラー(Schiller, Friedrich 1759-1805)は、マンハイム劇場における『群盗』(1781)初演で、大きな成功を収めることができた。それは1782年1月13日のことだった。観客も俳優も感動のあまり一瞬硬直し、ついで劇場は感涙と歓声に包まれたと伝えられている[1]。しかし、見習い軍医であったにもかかわらず、自分の作品の上演を見るために無断で勤務地(軍務)を離れたこと[2]や、作品の内容が体制を批判し、反社会的行為を煽るものとみなされた[3]ために、シラーは領主カール・オイゲン公(Carl Eugen Herzog von 1728-93)によって執筆禁止と禁足を申し渡されたのだった。シラーはカール・オイゲン公に謝罪と弁明の書簡を送ったが、大公の勘気を解くことはできなかった。そこで、1782年9月22日に、シラーはこの処分に抗して故郷の地を出奔した。勿論、無断出国がどういうことを意味するかを、シラーは重々承知していた。その後のシラーの足取りを辿れば、彼が官吏の手による捕縛を如何に恐れていたかがうかがえる。当初の逃亡地マンハイムからフランクフルトへ、さらにオッガースハイム、再度マンハイムへ ・・・といったように、シラーは各地を転々とすることを余儀なくされたのだった。根無し草のような逃亡生活は約二年半に及んだ。それでもシラーは執筆活動を中断することはなかった。この間に、二篇の戯曲『フィエスコの反乱』(1783) と『たくらみと恋』(1784)が発表されている。そしてシラーがようやく安住の地を見いだすことができたのは、Chr.G.ケルナー(Koerner, Christian Gottfried 1756-1831)と彼の文化サロンの仲間の支援によって、ライプツィヒ近郊のゴーリスドルフに居を移すことができてからだった(1785年5月)。このことが切っ掛けになって、シラーはケルナーと終生に亘って友情を結ぶことになる。そしてケルナーに庇護されて過ごしたライプツィヒ時代は、シラーの前半生において最も心休まる時代であったといえよう。

しかし、約二年間の滞在の後、シラーはこの安住の地を後にすることになる。シラーの詩的天分を信じるケルナーは、シラーに更なる飛躍を求めたのだった。つまり、当時、文化の中心地とみなされていたワイマールに居を移し、文化活動に理解を示すカール・アウグスト公(Carl August Herzog von 1757-1828)の後援を得ること、そしてその地の文化サロンの中心にいるJ.W.ゲーテ(Goethe, Johann Wolfgang 1749-1832)の知己を得ることを、ケルナーはシラーに強く勧めたのだった。また、シラー自身も新たな環境の下で、彼の詩的活動に新風を吹き込む必要性を感じていた。なぜなら、シラーは1787年6月に戯曲『ドン・カルロス』の完成にこぎつけたが、自らの詩的想像力の衰退を強く意識するようになったからである。シラーは作家活動を諦め、歴史の研究に活路を見出そうとする気持ちを抱くようになる。当時(1787年前後)、ケルナーと交わした書簡[4]には、ペンを取ることのできなくなった作家の痛々しい苦悩の跡が滲み出ている。それ故、シラーのワイマール訪問には、作家シラーの命運がかかっているといっても過言ではなかった。カール・アウグスト公の支援とゲーテの助力を得て作家活動の蘇生を図るか、あるいはシラーの解釈によれば[5]、作家ほどの詩的天分を必要とせずに、不断の努力によってなしえる歴史研究に移行するかといった、決断のときだったのである。

1787年7月21日にシラーはワイマールに到着した。しかし、カール・アウグスト公はポツダムへ出かけてしまっており、そしてゲーテはイタリアへ旅立った後だった[6]。それでもシラーは、Chr.M.ヴィーラント(Wieland, Christoph Martin 1733-1813)J.Gヘルダー(Herder, Johann Gottfried 1744-1803)の仲介を得て、ワイマールの文化サロンに集う人々と接するようになる。しかし、シラーは彼らの貴族趣味的な感覚に馴染むことができず、またゲーテ崇拝ともいうべき、彼らの度を越したゲーテ賛美を感じ取ったのだった[7]。シラーがこの地で捉えたゲーテ像は、それまで抱いてきたものと異なっていた。シラーが初めてゲーテの姿を仰ぎ見る機会を得たのは、カール学院在学中であった。1779年12月14日、カール学院の卒業式で、シラーは他の成績優秀者とともに賞される栄誉に浴した―ただし、シラーは卒業論文が受理されず、新たに二篇の卒業論文を書き上げ、翌年12月にようやく学院を去り、見習い軍医に任官することができたのだった[8]が―。さて、その式典にカール・アウグスト公に随伴するゲーテが出席していた。当時三十歳のゲーテは既に新しい文学運動の推進者として名を馳せており、シラーに限らずカール学院の生徒たちは、彼らの前に立つゲーテの姿に彼ら自身の未来像を重ね合わせただろうことは容易に推察される。当時、既にヘルダーの世界観から強い影響を受けていた[9]ゲーテは、自然界のみならず精神界の構成にも有機的な結合を直感的に捉えており、素朴さと優しさを漂わせる全人的存在として、青年たちの羨望の的でもあった。勿論、二十歳を迎えたシラーもその一人であった。しかし、あの感激の日から八年を経て、今、現実にゲーテの活動圏に足を踏み入れてみると、ゲーテの意志に関わりなく、彼を偶像視さえする人々によって作り上げられたゲーテ像[10]が、呪縛的あるいは威圧的な存在となって立ちはだかっているかのようにさえ、シラーには思えたのだった。ただし、その一方で、ゲーテの助力を得て、作家活動の新たな進展をはかりたいというシラーの気持ちにも変わりはなかった。また、ゲーテがイタリアから帰ってくる時期も定かでないことに対する不安もあった[11]。詩的天分の蘇生と新しい活動の場を求めるシラーの落胆と複雑な心境は、如何ばかりであったことだろう。ケルナーの熱心な勧奨があったとはいえ、ケルナーとの日々の親交を犠牲にしてまで、シラーはライプツィヒからワイマールに居を移したのだった。しかし、そのような意にそぐわない、暗澹たるワイマール滞在の日々のなかで、ヘルダーの丁重な、かつ彼の博識をうかがわせる応対に対して、シラーは特別な好感を覚える。1787年8月8日付けケルナー宛書簡で、シラーはヘルダーとの邂逅について嬉々として報告している[12]。両者の交友関係はまもなく冷え冷えとしたものになるだけに、このワイマールでの邂逅のときが両者にとっての最も建設的な思想的交換の時期であったといえる。シラーの書簡の文面から、この出会いで、シラーの『哲学的書簡』 (1786年)とヘルダーの『愛と自己』(1781年)が、共通の話題であったと推察される。同書簡でシラーは次のように述べる。

 

ヘルダーの論文『愛と自己』に話が及んだ折に、私はヘルダーに、私たちがこの点で共通の関心を持てます、と言いました。私は彼にユーリウスに託した自分の考えを説明しました。彼はそれを理解してくれ、まったくその通りだと言ってくれました。彼はユーリウス=ラファエルの書簡を読むつもりでおります。(NA 24,124f.)

 

『哲学的書簡』は、シラーが友人ケルナーとの日々の親交を記念して、また青春時代の思想的形成の結実として書き記そうとしたものであるが、『哲学的書簡』で主要な部分をなす「ユーリウスの神智論」は既にカール学院時代とそれに続く見習い軍医時代に、つまり1780年代の初めに書かれていたと思われる。しかし、シラーが『哲学的書簡』の思想的内容を固めた時期に、あるいは同書を執筆した時期に、ヘルダーの『愛と自己』を既に読んでいたかどうかは、現段階の文学史研究の成果では定かでなく、それ故ヘルダーの『愛と自己』がシラーの『哲学的書簡』に思想的な影響を与えたか否かについては、確定的なことを記すことができない。

しかし、前記のシラーの報告内容から、そして『愛と自己』を掲載した雑誌「ドイツ・メルクール」の刊行にシラーが関わっていたこと[13]から推察すると、1787年のヘルダーとの邂逅の際には、シラーはヘルダーの『愛と自己』を読んでいたと思われる[14]。少なくとも、この時期、両者が相互に共感し合える世界観や思想的傾向を抱いていたことは確かである。しかも、同様な世界観を抱く人生の先輩に邂逅できた感激と、博識なヘルダーに寄せる尊敬の念が、シラーをしてヘルダーに急速に接近させてゆくことになる―勿論、ゲーテ不在のワイマールにおいて、ゲーテほどの助力を望むべくもないが、作家としての精神的発展の面でも、また実践的な生活の面でも、シラーがゲーテに代わる人物の知己を得る必要に迫られていたことは否定できない―。

それ故、シラーの『哲学的書簡』とヘルダーの『愛と自己』にうかがえる両者の世界観を探ることは、短期間のことであったとはいえ、ヘルダーに寄せる崇敬の念ともいえるシラーの感激の理由について知ることができ、まもなくI.カントKant, Immanuel 1724-1804の歴史哲学思想と美学哲学思想の研究に没頭し、更にゲーテの文化思想に心を向けるようになる以前のシラーの世界観、人間観について、認識を深めることになる。

 

U シラーの『哲学的書簡』をめぐって(1)

―完全性の思想―

最初に、シラーの『哲学的書簡』について考察を加えたい。これは1786年5月にシラー主宰の雑誌「タリーア」第三号に発表されたものである。この『哲学的書簡』は、二人の青年ユーリウスとラファエルの間で交わされる所謂人生問答を扱った書簡形式の短篇である。外形的には、シラーとケルナーの親交を作中人物ユーリウスとラファエルの友情に重ね合わせたものと捉えることができるが、ユーリウスとラファエルはシラー自身の分身の役を果たしているとも解することができる[15]。そして『哲学的書簡』の思想的な中心をなしているのが、「ユーリウスの神智論」と題される部分である。それは五つの章<「世界と思惟する存在」、「理念」、「愛」、「犠牲」、「神」>から構成されている。そのうち「犠牲」以外の四つの章はカール学院在学時とそれに続く見習い軍医時代にその思想的な骨子が固められたと考えられる。この頃にシラーが著した二篇の有徳論[16]と最初の卒業論文『生理学の哲学』、そして詩集『1782年のアンソロジー』(1782)には、『哲学的書簡』の中心をなす思想と共通するものがうかがえるからである。それどころか、『哲学的書簡』に織り込められている叙情的な詩句のなかには、『1782年のアンソロジー』で綴られている叙情詩の詩句と重なるものがみられる。それでは、これらの四つの章の支柱をなす思想は何かというと、人間精神の至高の完成を目指す「完全性」の思想と、神的存在を頂点とする敬虔で幸福な人間関係を築き上げるために必要な心のあり様を説く「愛」の思想である。この愛の思想は、神的存在に寄せる信心にも似た崇敬の念を中心に、家族や隣人に寄せる敬愛の心、さらに万物に寄せる博愛主義的な心に基づく自他超越の愛を説いている。そして、故郷出奔後の逃亡生活あるいはケルナーとの親交の日々のなかで書かれたと考えられる「犠牲」の章では、完全性の思想に基づく自他の高尚な人格の形成を目指す思想の発展的な流れとして、有限的な自己を無限的な全体に参入させることによる没我的かつ永続的な生のあり様、つまり共同体社会や人類の福祉のために供する自己犠牲の心が意味するところが説かれる。この個人の心の永続化、つまり霊魂不滅の思想にも通じる自己犠牲の心の実践的な顕現を、『哲学的書簡』の直後に書き上げられた戯曲『ドン・カルロス』で私たちは捉えることができる。カルロスに寄せるポーザ公の友愛の情、そしてカルロスに寄せる王妃エリーザベトの愛に、幸福な未来社会を築くために供する没我的な愛のあり様をみることができる[17]

つまり『哲学的書簡』においては、まず、私たちが人格形成で目指すべき究極的な到達境地として完全性の理想が高く掲げられ、次にこの至高の境地の体得に向けて人格を高めるために、社会的存在である人間が温めてゆくべき愛のあり様が説かれ、そして更にこの愛の究極的なあり様として没我的な愛、即ち自己犠牲の心が説かれる。しかも、この自己犠牲の心は、畢竟するに、神的存在の完全性に等しい境地の別様の一つの顕現といえる。そして若いシラーが説く完全性の理想と愛の哲学に基づく人間形成の思想は、戯曲『ドン・カルロス』における様々な人間模様の展開のうちに、ポーザ公と王妃エリーザベトが示す没我的な愛という実りとなって昇華される。そして王子カルロスは両者の自己犠牲のもとに、思想の自由を容認する社会を構築するべく、宗教裁判と対決し、絶対王政の改革に専心することを決意するのであった。しかし、その決意の直後、カルロスは国王と宗教裁判長によって逮捕される。

そこでまず、完全性の思想について考察を深めることにしたい。ユーリウスがマタイ伝の一節を引用して「汝らの天の父が完全でおわしますように、汝らもまた完全であれ、と私たちの信仰の創始者は述べておられる[18](NA 20, 125)と説くように、完全なる神のあり様を目標に、自己研鑽に努めることを自他に求める完全性の思想は、道徳的のみならず、多分に宗教的要請が強いものといえる。「ユーリウスの神智論」の冒頭に次の言葉がうかがえる。

 

宇宙は神の一つの思想です。この理想的な精神の像が現実の世界に入り込み、そして生じた世界が創設者の設計を実現した後は、─こんな人間的な考え方を敢えてすることを許して欲しいのですが─すべての思惟する存在の使命は、この現に存する全体のうちに、最初の設計を見いだすことにあります。即ち、装置のなかにそれを動かす原理を、構成のうちに統一を、現象のうちに法則を探し出して、建築をその設計にまで遡ることにあります。(NA 20,115)

 

この言葉と同様に、自然のなかに遍在する神性を読み解いて、神の完全性を体得すべく、自己陶冶に努めることを要請する道徳的かつ宗教的色彩の濃い言葉が、ユーリウスによって幾度も発せられる。もっとも、敬虔主義の活動が浸透していたシュヴァーベンの地で、しかも信仰心の厚い家庭で育ち、自身も幼いころには牧師になるべくラテン語学校に通ったこともあるシラーにしてみれば[19]、彼の敬虔な心情がユーリウスの口を借りて、言葉の端々に表れ出ているとしても、あるいはユーリウスの言葉を迎えるラファエルの姿勢にうかがえるとしても、少しも不思議ではない。更にユーリウスによって発せられる言葉を挙げておこう。

 

あらゆる精神は完全性によって引きつけられます。あらゆるものはその諸力の最高の自由な発現の状態を得ようと努力します。あらゆるものは、その活動を拡大し、善なるものとして、優れたものとして、刺激的なものとして認識するあらゆるものを、自分に引きつけ、自分のなかに集め、自分のものにしようとする共通の衝動を持ちます。(NA 20,117)

 

完全なるものを「自分に引きつけ、自分のなかに集め、自分のものにしようとする共通の衝動を持ちます」(NA 20,117)という言葉には、人間は自らのうちに潜在する能力の全的な開花を目指し、有限的存在として各々に定められている制限性を凌駕するように、まさに本能的に、かつ生来定められている、と捉えるシラーの人間観および人間使命論がうかがえる。そして人間精神の究極的な完成を願うシラーの言辞の底流に流れているものは、人間存在の善性に寄せる人間信頼の心である。

しかも、神の完全性を我がものにすることを目指す人間形成の思想は、カール学院時代に書かれた二篇の有徳論や『生理学の哲学』の中心的な思想でもある。このことについて、筆者は、拙論『若いシラーとChr.ガルヴェ』[20]と『Fr.シラー:人間形成論の胎動』[21]で考察を加えたことがあるので、詳細については前記の拙論に譲るとして、ここでは、本論文の論述の構成上、概略的に述べるにとどめたい。若いシラーの人間形成の思想を表す言葉として、『生理学の哲学』で述べられている次の言葉ほど簡明なものはない。

 

   人間は、創造主の偉大さを獲得するために、存在する。人間は、創造主が世界を見渡すと同じ眼差しで、世界を見渡すために存在する。神に等しい存在(神的相等性)になることが人間の使命である。なるほど、このような人間の理想は無限に遠い。しかし、精神は永遠である。(NA 20,10 括弧内筆者)

 

ただし、ここで説かれている敬虔で道徳的な人間啓蒙の思想は、シラー固有のものではない。そもそも、「人間は、創造主の偉大さを獲得するために、存在する。[・・・・・]」(NA 20,10)という前記のシラーの言葉も、A.ファーガスン(Ferguson, Adam 1732-1816)Chr.ガルヴェの言辞の反復に近いものである[22]。シラーが生きた時代を「フリードリヒの世紀」、つまり「啓蒙の時代」[23]と評した思想家がいたことは、よく知られているが、若いシラーの思想的形成との関わりからいえば、A.ファーガスン、M.メンデルスゾーン、そしてChr.ガルヴェに代表される所謂イギリス道徳哲学と大衆哲学(Popularphilosophie)が説く道徳的啓蒙的な思想を挙げなければならない[24]。このことについても、前記の拙論で言及しているが、A.ファーガスンとM.メンデルスゾーンの言葉を次に挙げておく。特に、若いシラーの思想形成にとって、シャフツベリ(Third Earl of Shaftesbury 1671-1713)の道徳思想を継承するA.ファーガスンの思想[25]から受けた影響は重要である。A.ファーガスンはその著書『道徳哲学の原理』で次のように述べる。

 

神の摂理の対象や意向が、全体において何であるかを理解するまでに悟りを開いた魂の状態が、その他のいかなる状態よりも最も喜ばしい状態であり、苦痛からの完全な開放に最も近い状態なのだ。このような心意状態は、神の創造のなかにあるすべての事物と、神の創造のなかで生起するすべての出来事を観照することから、喜びを汲み出す能力にほかならない。[・・・・・]人間は、彼を最も強く働かせ、彼の傾向性を呼び覚まし、彼の才能を発揮させる活動において、最も快適に楽しい気持ちにさせられる。[26]

 

また、M.メンデルスゾーンは『フェードン、あるいは魂の不死について』(1767)において次の啓蒙的な思想を披瀝する。

 

   生きているもの、思惟するものすべては、その知識とその欲求力を試し、形成し、実行に移し、それ故多かれ少なかれ、強い足取りであれ、弱い足取りであれ、完全性に近づくことを止められない。そしてこの目標はいつ達成されるか。この目標が達成されることは決してないように思える。それほど更なる前進への道は阻まれている。[・・・・・]神の模倣を通じて、人は次第にその完全性に近づくことができるのであり、そしてこの接近に心ある者たちの幸福がある。しかし、そこへの道は無限であり、永遠に完全には遡ることはできない。それ故、努力を続けることは人間の生において際限ないことである。[27]

 

M.メンデルスゾーンの前記の言葉は、当時の道徳的啓蒙的な思想を代表するものといえる。「完全性に近づくことを止められない」[28]「神の模倣を通じて、人は次第にその完全性に近づくことができるのであり、そしてこの接近に心ある者たちの幸福がある」[29]「そこへの道は無限であり、永遠に完全には遡ることはできない」[30]といった言葉が示唆するところは、有限的存在である人間の使命として、神的存在の完全性に等しい境地の体得へ向けての人格形成を説くとともに、この向上努力を本能的ともいえる人間の生来の傾向性として捉え、かつ向上活動の成果よりも不断の努力を続けることそのものに生の歓喜、人間存在の意義があることを説くものである。確かに、若いシラーにあっても、短篇『菩提樹の下の散歩』(1782) や『青年と老人』(1782)において、オプティミストの青年エトヴィンとペシミストの青年ヴォルマールの間で、あるいは理想に燃える青年セリムと世故に長けた老人アルマールの間で交わされる人生問答は、M.メンデルスゾーンの前記の論述にうかがえる人間使命論と同様の思想を明らかにする。エトヴィンもセリムも、行為の結果よりも、理想の成就に向けての努力のプロセスに人間的な存在の意義を見出している。また詩『諦念』(1786)の最終連で詠まれている詩句も、同様に行為そのものに生の意義を置く啓蒙的な心を伝えている。曰く、「希望したということは、汝の報償が支払われたということです。信じたということが、汝の勝ち得た幸福でした」(NA 1,169)と。

それでは、有限な存在である人間に、無限な神的存在の世界への越境を可能とみなすシラーの論説の根拠は、何処にあるのだろうか。その根拠はシラーの表象概念にある。シラーは、私たちがある対象の像を表象する瞬間には、表象の対象であるものが私たちのものになっていると仮定し、そしてその表象の発現の要素を私たちが心の内奥に宿していると捉える。ただし、このような表象思想は決して特異なものではなく、敬虔な人間の育成を説く思想家によって度々説かれてきたものである。若いシラーの思想形成との関わりから、ここでは、プロティノス(Plotinos 206-269)の言葉を次に挙げておこう。

 

見ようとするときには、見る者が見られるものと同族でなければならないし、似ていなければならない。目が太陽のようでなければ、いかなる目も太陽を見ることができないだろう。心が美しくなっていなければ、いかなる心も美しいものを見られないだろう。それ故、神と美を見ようとする者は、まず、まったく神のようにならなければならないだろうし、まったく美しくならなければならないだろう。[31]

 

シラーの表象思想が、ユーリウスに託されている。ユーリウスは、真なるもの、美なるもの、有徳なものを表象することが、遂には自己自身の精神的な高尚化に通じることを説く。ユーリウスの持論によれば、それはまたシラーの生の信念でもあるが、神的存在の完全性を表象することによって、表象している瞬間には、自身の完全化を達成することが可能なのである。

 

美なるもの、真なるもの、卓越するものを観察するということは、すなわちこれらの特性をそのとき所有することです。どのような状態を知覚するにしても、私たち自身がその知覚する状態に入ってゆくのです。私たちがそれらについて思惟する瞬間に、私たちは徳の所有者であり、行動の開始者であり、真実の発見者であり、また幸福の持ち主なのです。私たち自身が感受された客体になるのです。(NA 20,117)

 

ユーリウスを介して説かれるシラーの人間観によれば、またそれは新プラトン主義の思想傾向でもあるが、私たちは、私たち自身の内奥に、神に通底する神性を宿している故に[32]、自然に偏在する諸々の神性の断片を捉えることができるのであるが、それらの神性の断片を綜合的に把握することによって、つまり綜合的に表象することによって、神的存在に連なる存在であることができる。そして、私たちが神性を分有し、神的存在に通底する存在であるという信仰は、私たちに自己の存在性に寄せる満足と幸福の気持ちを惹起する。私たちは、被造物であるが故に有する存在の有限性を、表象の瞬間には、超えることができるのである。そして、その瞬間に、私たちは神的存在に相等する存在になることができる、とシラーは説く。

 

V シラーの『哲学的書簡』をめぐって(2)

―愛の哲学―

これまで、若いシラーが人間の使命として追い求めるべく説く完全性の思想について考察を加えてきた。次にこの至高の境地に到達するために、いわば心の梯子の役を果たす愛[33]についてシラーが抱懐する思想を探ってゆきたい。そして、若いシラーの人間形成の思想において、完全性の思想と両輪をなす愛の思想を通じて、シラーはヘルダーとの思想的な連帯を得ることができたのだった―ただし短期間であったが―。

シラーは作家活動を通じて様々な愛のあり様の描出に取り組んでいる。しかも愛のあり様が様々に描き出されているだけでなく、対極をなす憎しみの感情によって引きおこされる様々な人間模様も取り上げられている。たとえば、シラーの創作による幾つかの戯曲を概観しただけでも、様々な愛と憎しみのあり様が描出され、その愛と憎しみのモチーフが戯曲の展開に様々に織り込まれている。『群盗』でシラーが描き出す愛と憎しみのあり様を挙げるならば、カールと盗賊仲間の間で交わされる些か歪んだ友情、カールと恋人アマーリアとの恋愛の情、カールと父親との父子愛、そして一方通行に終わってしまうが、弟フランツに寄せるカールの兄弟愛がある。さらに愛の対極にある憎悪の念として、兄カールに対するフランツのコンプレックスに起因する憎しみが描出されている。フランツの憎しみの対象は、自分の出自や容姿にさえ向けられている[34]。また、カールや彼の盗賊仲間は非人間的な政治体制や固陋な慣習に対して憤怒の念と反抗の炎を燃やす。そして、『哲学的書簡』の直後に完成する戯曲『ドン・カルロス』では、王子カルロスと友人ポーザ公との友情、義母エリーザベトに寄せるカルロスの思慕の情、そして崩壊してしまっている国王一家の家族愛、さらにそれまでの作品ではみられなかった同胞の幸福や人類の至福のためには自己犠牲さえ厭わない同胞愛や人類愛が描き出されている。さらに孤独感と猜疑心に苛まれ涙する国王フィリップの姿もみられる。また、カール学院時代の二篇の有徳論、卒業論文『生理学の哲学』、そしてこの『哲学的書簡』では神に寄せる愛、家族愛、同胞愛、没我的な愛そして自己愛が論じられている。まことに、愛の様々なあり様を、シラーは取り上げている。そして、ときには人間に対する憎しみの感情だけでなく、社会体制や因習に対する憎悪と反抗の心も描き出されている。

シラーによれば、神的完全性に等しい境地の体得を求める理想は、私たちが個別的に、あるいは孤立的に達成できるものではなく、神的存在に寄せる敬愛の念を中心に、他者との愛の連帯のなかでのみ成就できる。無限なる存在者に寄せる信仰にも似た崇敬の念と、他の被造物との友愛の情、そして自他超越の愛の境地に至ってこそ、人間はその究極的な人格形成を達成することができる、と説かれる。その信仰とは、再度引用することになるが、「汝らの天の父が完全でおわしますように、汝らもまた完全であれ、と私たちの信仰の創始者は述べておられる[35](NA 20,125)とユーリウスが指摘するように、何よりも神的存在自身が人間の精神的な完成を求め、人間を導いてくれる、と信じる心のことである。そこには、神に対する敬虔な宗教心に等しい心情がうかがえる。そして自他超越の愛とは、文字どおり、自己と他者という境界を超え出て、被造物すべての至福を希求する心を指す。ユーリウスは「愛」の章で次のように述べる。

 

かくして愛―それは生命ある創造物のうちで最も美しい現象であり、精神界における強力な磁石であり、敬虔と、このうえなく崇高な徳との源泉ですが─愛は唯一の根源力の反映にほかならず、人格の一時的な交換を基礎とした、優れたものの持つ引力であり、本質の交流です。(NA 20,119)

 

シラーは愛のうちに、自己と神、自己と他者という存在の境界を越え出るように、心を高尚化する力を捉えている。他者の、ひいては全体の至福をもたらすために、自己の存在を否定、放棄することなく、全体のなかに自己を組み込んでいることに対する生の充実感とも喜びともいえる気持ちが、没我的な愛のうちに惹起されるのだ。愛は自己と他者、自己と世界という異なる存在を相互に交換させる力を持つ。存在の交換とは、自己と同様に、他者をその存在の根源から理解し、他者の存在のなかに自己の存在を合流させることを意味する。また前記のユーリウスの言葉「愛は[・・・・・]精神界における強力な磁石である」(NA 20,119)からも、シラーが、物質界における万有引力に匹敵する結合の力を、精神界における愛の力に読み取っていることがうかがわれる。ただし、愛の結び付ける作用を磁石や万有引力、鎖の結合力に譬える思考は、シラー固有のものではなく、啓蒙思想を説く思想家たちによってよく用いられていたものであることを記しておきたい[36]

それ故、普遍化を目指すシラーの愛の思想を十全に理解せずに、ユーリウスの口を介して説かれる言葉を断片的にのみ取り上げるならば、シラーが説く愛の思想を単なる自己愛、ひいてはエゴイズムと誤解しかねないことにもなる。自己愛と他者愛について述べている次の言葉をみてみよう。

 

私はあらゆる精神の幸福を欲します。なぜなら私は自分を愛するからです。私が表象する幸福は、私の幸福になるのです。それ故、これらの表象を目覚めさせ、多様化し、高めることが私にとって重要です。─それ故、私のまわりから幸福を広げることが私にとって重要です。私が私の外で生み出す美、優秀さ、楽しみを、私は私のために生み出します。私がなおざりにし、散らすものを、私は私のために散らし、なおざりにするのです─私は他者の幸福を欲します。なぜなら私は自分自身の幸福を欲するからです。他者の幸福を求めることを私たちは好意、愛と呼びます。(NA 20,119)

 

シラーがユーリウスを介して自己愛について語るとき、そこには他者に寄せる愛の萌芽が含まれていることを捉えておかなければならない。前記の引用の言葉「私はあらゆる精神の幸福を欲します。なぜなら私は自分を愛するからです」(NA 20,119)、あるいは「私は他者の幸福を欲します。なぜならば、私は自分自身の幸福を欲しているからです(NA 20,119)等の解釈には、まことに慎重を要する。自他超越の境地にいるシラーにあっては、自己愛と他者愛は同義なのである。しかも、このような愛の思想はカール学院時代に著された諸論文にもうかがえる。シラーは、『生理学の哲学』で、次のような愛の思想を展開している。

 

   愛、人間の魂のなかで最も美しく、最も高貴な衝動、感受する人間と人間を繋ぐ偉大な鎖、それは私自身と隣人の存在の交換以外のなにものでもない。そしてこの交換は喜びなのである。それ故、愛は隣人の楽しみを私の楽しみにし、彼の苦痛を私の苦痛にする。(NA 20,11)

 

また『結果からみた徳』でも、シラーは次のように述べている。

 

魂と魂を結び付けるものが愛である。愛とは、無限な創造主を有限な被造物のところに導き、また有限な被造物を無限な創造主のもとへ引き上げる。愛とは、限り無い精神の世界をただ一つの家族にまとめ、無数の精神を、万物を愛する父なる神の息子となすものである。愛とは被造物のなかで息づく第二の生命である。愛とは、あらゆる思惟する人間を相互に結び付ける偉大な絆である。(NA 20,32)

 

 我と彼の壁を越え出たところに、ユーリウスの心の世界があることを、私たちは知らなければならない。その境地に自律的に至るのが、愛の心なのである。このような自他超越の愛の思想を掲げてユーリウスは彼の生の信条を説いてゆく。自分自身に寄せる愛と他者に寄せる愛の一体不離、自己と他者の心的完成を目指す相互補完的、かつ自己を保持しつつ他者のうちにその自己を参入させる心の形成が、全体へ向けての包摂的傾向性を惹起し、そこから自己の存在性に寄せる充実感が生まれる。畢竟するに、その充実感とは、自己の個別的な存在が普遍的な幸福の形成に寄与していることに対する生の歓喜でもある。

しかも「ユーリウスの神智論」で説かれる没我的な愛によって惹起される幸福の理想は、自己と他者の無境界な調和的一体化への希望で尽きるのではない。その最も重要な要請は、完全化への相互補完的な努力が有限的な被造物を神的存在に相等する存在へ導くという信仰にある。ユーリウスが「すべての美、偉大さ、優秀さを自然の大小のなかに読み取り、この多様性に対して偉大な統一を見いだすところにまで達した人間は、神性にすでに非常に近づいているのです」(NA 20,121と述べるように、私たちの心が我を滅して、つまり自己の存在の置きどころを我から他者、究極的には全体のなかに滅入することによる心の普遍的拡大に伴って、他者、すなわち被造物個々の内に宿る断片的な神性を綜合的に捉えることによって、つまり神的存在の完全性を綜合的に表象することによって、個人の私心が払拭され、完全なる神的存在の境地に近づき得る可能性が示唆される。

それ故、他者との没我的な交換を可能にする没我的な愛の理念は、「ユーリウスの神智論」において論じられ、最終的に至りつく思想である。ラファエルは「私は没我的な愛が現にあることを信じます。もしもそれがなければ、私は破滅ですし、神性、不死[37]、徳を諦めます。愛を信じることを止めれば、私はこれらの希望のための証明をもはや残せません」(NA 20,122)と述べるが、この言葉は、私たちが没我的な愛の境地に達することができるならば、私たちが「神性、不死、徳」を備えた存在、つまり完全なる神的存在に通じる存在に連なれることを示唆するものである。それ故、ユーリウスの人生哲学から云うならば、それはまたシラーの生の信条でもあるが、没我的な愛の境地とは、畢竟するに、神的な完全性の一つの顕現といえる。また、次章で論及するヘルダーの『愛と自己』との関わりからいうと、『哲学的書簡』では愛の結びつける力に焦点が合わせられているためであろうか、愛の感情の対極に位置する憎しみについては、人をめぐる絆を分断するものとして否定的に捉えられている。「私が憎むとき、私は私自身から何かを取り去ることになる。私が愛するとき、私は私が愛する分だけ豊かになる。[・・・・・]人間の憎しみは長引く自殺行為に通じ、エゴイズムは創造的存在の極端な貧困である」(NA 20,120)という一節が示すように、愛を能動的かつ向上的な活動の源泉と捉え、憎しみを受動的かつ否定的な活動の原因とみなしている。ただし、若いシラーの戯曲で描かれている青年たちのなかには、例えば、『群盗』のフランツのように、憎しみや憤怒の念が活動の原動力になっている場合もうかがえる。詳細については、次章で触れることにする。

 

W ヘルダーの『愛と自己』をめぐって

―愛と友情における自己―

本章においては、シラーとヘルダーの邂逅の際に、シラーの『哲学的書簡』と同じく話題になったヘルダーの『愛と自己[38]を拠りどころに、シラーの啓蒙的な思想との比較考察を加えながら、ヘルダーの論説が意図するところを探りたい。

ヘルダーは、『愛と自己』の冒頭で、古来受け継いできた先人の教え(伝説)として愛について述べる。

 

愛が世界をカオスから引き出し、被造物を願望と憧憬の絆で相互に結び付けているということ、そしてこの優しい絆で愛がすべてのものを秩序付け、一者に、あらゆる光の、あらゆる愛の偉大な根源に導くということは、最古の文学の美しい伝説である。(HW 4,407)

 

しかも、ヘルダーの論及は愛の思想のみでないことがまもなく分かる。ヘルダーは「物質的な世界において引力と斥力であるものが、精神的な世界においても存在し、この二様の力が世界の維持と確立に必要であることが分かるだろう」(407)と述べ、物質界における引力と斥力に相当するものとして、心の世界における愛と憎しみを挙げる。そしてヘルダーはエンペドクレス(Empedokles c.493-c.433 BC.)の言葉を引き合いに出して、愛と憎しみについて、それぞれの特徴的な働きを明確化する。

 

憎しみによって事物は分けられ、個々のものは本来の自己を保つ。そして愛によって個々のものは結び付けられ、それらの本性に従って、お互いに仲間になるだろう、と彼(エンペドクレス)は言っている。(HW 4,408括弧内筆者)

 

ヘルダーは、存在するもの同士がお互いに引き寄せあって、愛の絆で結ばれることにより温厚な集団(社会)が形成され、つまるところ、世界の秩序が保たれることについて語りながらも、存在するものが個々に分けられることによって、本来の自己を保持できることについても触れる。つまり、ヘルダーは、二つの相反的な感情―引き寄せ結び付ける力である愛と、反発し抵抗する力である憎しみ―を、人間を社会化する視点と個別化する視点から、人間的形成にとってそれぞれに不可欠なものとみなす。ヘルダーは、同時代の啓蒙思想家がよく明らかにするように、人間を社交的な存在とみなし、「社交的な人間は気さくで好意的であり、彼は自分自身を容易くどのような社会にも合わせ、そして社会のほうでも容易く彼に合わせてゆく」(HW 4,411)と述べるとともに、人間の心に燃える他者に対する反発と抵抗の力が自己喪失を防ぎ、また被造物全体を無自覚的に巻き込む熱狂や夢想から自己を守ることについて説く。愛と憎しみが適宜に相互抑制的に力を発揮することによって、心の世界のバランスや秩序が保たれる、とヘルダーは捉える。シラーも、第三の卒業論文『人間の動物的本性と精神的本性の連関についての試論』において、人間のうちには、愛の引き寄せる力があるとともに、憎しみの撥ねつける力があることを理解しており、「憎しみは肉体のなかで、いわば押し戻す力としてあらわれる。それと反対に、私たちの肉体は握手や抱擁によって友人の身体に移ろうとするときには、同時に魂も調和的に混和される」(NA 20,69)と説いていることが想起される。また、『群盗』のフランツは、本論のVで言及したように[39]、自らの出自や容姿に対する不満からも自然に対して恨みと憎しみを抱いているが、その自然に対する憤懣が他者に依存することなく、自らの力の及ぶ限りで生きてゆくことをフランツに決意させる[40]。シラーは、愛に飢えている感情や憎しみの感情も、自己の存在に対する認識の惹起と自己保存のための生命力を生み出すことを、フランツを介して、描出している―ただし、シラーはフランツの生き方を肯定するわけではないが―。フランツの生に対する凄まじいまでの生命力を思うとき、シラーが詩『哲学者たちの活動』で詠んでいる「飢えによって、そして愛によって、哲学は(世界の)歯車装置を維持する」(NA 1,269 括弧内筆者)という詩句が想起される。

 さて、ヘルダーは『愛と自己』の導入部で愛と憎しみの持ち場について寸言する。ただし、ときには、憎しみについて言及していることは確かであるが、しかしヘルダーの当面の論究の対象は、まず、愛の心から発展的に形成されるべきとみなされる友情にある。暫時、ヘルダーの友情論に考察の視点を向けてみる。

 

友情―これはなんという異なる聖なる絆であろうか。それは心と手を一つの共通の目的に向けて結びつける。少なくとも、この目的が明らかで、持続的で、大いなる努力を必要とし、危険に晒されていても、あるいは危険が去ったあとでも、友情の絆は頑丈なものであり、固く、心から結ばれたものであり、しばしば死以外の何ものも分けることができないほど非常に固いものである。(HW 4,411)

 

あるいは、次の言葉もみられる。

 

   友情の炎は純粋で生気を与える人間の暖かさである。一つの祭壇の上に載った二つの炎は、互いに戯れあい、互いに歓声を高くあげあい、そしてしばしば悲しい別離のときにおいても、彼らは嬉々として一緒に、最も純粋な結合、即ち最も信頼することができ、分けることができない友情の国へ向かって飛んでいる。(HW 4,413)

 

 ヘルダーがここで云うところの友情とは、男同士、女同士、男と女の間で交わされる心の交換であり、軽い仲間意識から崇高な自己犠牲の心まで、様々な程度の友情を想定している。「結婚も友情であるべき」(HW 4,412)「友情は愛より純粋で、そしてそれ故に愛より確かに強い」(HW 4,413)「愛は厚い友情になるべきである」(HW 4,414)といった、友情を讃える言葉が続く。

確かに、ヘルダーの友情賛美の言葉を聞くと、愛の立場がいささか不利に思えるが、ただし、愛の心のなかでも親の慈しみの心、父親の愛と母親の愛については高く評価する。ヘルダーは親が示す無私的で無償の愛に感動を惜しまず、親の愛が<goettlich>  <himmlisch> <ewig, unendlich>(HW 4,417)であると評する。特に、わが子に寄せる母親の愛を賛美する。行方不明になった子供を捜す母親の不安以上の苦しみはなく、長年捜しまわった挙句に、ようやく再会できた、いわば新しく生んだかのように、わが子を抱擁するときの喜び以上の歓喜はなく、動物でさえ、わが子に乳を飲ませる以上の甘美な仕事はないと、母親の愛を賛美する(HW 4,417)

ところが、ヘルダーは女性に対しては、先人の女性観を引き合いに出して、逃げ道を設けているが、非常に辛口であるようにみえる。また、そこが生真面目なシラーとは異なるところであり、ヘルダーの歯に衣を着せないものの言い方がうかがえる。

 

   一般的な経験であるが、あらゆる夢想者のなかで女は厄介であり、しばしば、男は女によって感化されるのであるから、女は、いわば、男を新たに生むようなものである。それ故、男にとって女は、いわば神性の伝達者であった。彼女たちが神性を、特に人間の神をどのように考え感じたかは、世界の多くの書物や手紙が眼前にするところである。(HW 4,418)

 

 ヘルダーの女性観の一端に触れたような気がしなくもないが、ヘルダーはまた次のような、現代社会でも通用するような生活観をも明らかにしている。ヘルダーは夫婦関係であれ、友人関係であれ、共存的な関係における人と人のあり様について、一つの指針を示す。

 

   天に二つの光があるように、神は地上に男と女を創られた。彼らは感情の揺れのなかでお互いにバランスを保たなければならない。優しさと力に関して、一方が他方のために、欠けているものを補う。愛の王国では優しさは腕力より強い。神は女の弱さを諸々の魅力(Reize)で補い包んだ。神が必要に駆られて美形の法則から離れなければならないときには、神は愛の帯を女に巻きつけた。その帯は、あの女神が云うように、あらゆる強さに勝りたいという願望を秘めていた。友情においても一方は常に活動的であり、他方はむしろ補助的で受身的である。前者が男で、後者が女の場合もあるし、しばしば逆の場合もある。同じ音の響きは心の結婚においては快適でも有用でもなく、またあり得ない。生のメロディーと享受のメロディーを与えるのは、ハーモニーを奏でる音(konsone Toene)でなければならず、同じ響きを発する音(unisone Toene)ではない。さもなければ、友情はたちまち自己を見失って単なる仲間意識になってしまう。(HW 4,421)

 

 ヘルダーは、愛の関係においても、友情の関係においても、役割分担の遂行によるバランスの維持について説く。世界の秩序の安寧は、物質界であれ、精神界であれ、異なる二者間や多数者間におけるそれぞれの持ち味を生かした穏やかな共存関係から成り立つ。それぞれの持ち味を生かした存在のあり様とは、ヘルダーの言葉を借りれば、「相互に自由で、ハーモニーを奏でる音のようであって、ただし相手と同じ音を発することなく、しかも自己同一的な被造物」(HW 4,23)のあり様である。ヘルダーは私たちに、愛や友情における人間関係を引き合いに出して、自己の存在性を亡失することなく、かつ私心を凌駕して他者の存在のなかに我を織り込みことを望む。シラーも『哲学的書簡』で「愛は同じ音を発する心と心の間で生じるのではなく、ハーモニーを奏でる心と心の間で生まれる。私は私の感覚をあなたの感覚の鏡のなかに再認識してよい気持ちになるが、しかしまた私に欠けている一層高尚な感覚を、私は熱い憧れの念を抱いて願う」(NA 20,121)と述べていることが想起される。ただし、『哲学的書簡』に限っていえば、愛の絆による心と心の結合と相補的な精神の向上に論説の力点が置かれており、自己の固有な存在性の確保維持についての明確な言辞はみられない。

さて、「押し戻すことができない者は、引き寄せることもできない。両方の力は心の一つの脈拍に過ぎない」(HW 4,423)とヘルダーが述べているように、愛の心も憎しみの心も、ともに、社会的かつ個的存在としての私たちの生を支えるものとして、捉えられている。それ故、ヘルダーが当該論文で、わざわざエンペドクレスの言葉を引用して、憎しみの効力について語っているのも、ヘルダーが意味する憎しみ(Has)とは自己を保護し維持する力を指しているのであって、『愛と自己』という論文のタイトルが暗示するように、ヘルダーは愛と友情における個人のアイデンティティの問題を取り上げている[41]

しかも、ヘルダーが説くところによれば、神的存在は私たちを引き寄せる諸々の対象を分散させ、かつその引き寄せる力も様々な程度と種類に分けておいたので、私たちは様々な心の状態と生のあり様を体得できるのである。存在の多様性を経験できるからこそ、私たちは更なる心の高尚化を不断に求め、人格を陶冶してゆくことができるのである。 

さて、ヘルダーは次の言葉で当該論文の結びとする。

 

幸いにも、私たちが私たちの存在の概念を失うことはありえず、そして私たちは神であるという際限ない概念に到達することができる。私たちは偉大な世界の創造者になろうとも、常に被造物であり続ける。私たちは完全性に近づくが、私たちは決して無制限には完全になれない。(HW 4,423)

 

上記の言葉「私たちは完全性に近づくが、私たちは決して無制限には完全になれない」(HW 4,423)は、本論のUで引用しているM.メンデルスゾーンの言葉[42]と同様な思想内容であり、また同じく本論のUで考察を加えているように、シラーも同じような言葉を吐露している。人間精神の完全化を目指す主張は、時代が孕む共通の人間啓蒙の問題であったことがうかがわれる。ただし、「私たちは偉大な世界の創造者になろうとも、常に被造物であり続ける」(HW 4,423)という言葉からも分かるように、ヘルダーは私たち人間が終生に亘って、被造物であり続けることにプライドをもっている。私たちは自己の存在性を失うことなく、全体への参入を果たさなければならない。なぜならば、私たちは宇宙という鎖の一つの輪である地球に住まい、地球という鎖の一つの輪である大陸、あるいは国、あるいは町に住まいながらも、自己自身という存在性を保持する個人でもあるから。私たちは、全体の一員であるとともに、個的存在でもある。ヘルダーがこの論文を通じて伝えたかったことは、愛においてであれ、友情においてであれ、他者と歩みを一にしつつ自己(個性)保持的である存在のあり様の探求である。ヘルダーが『愛と自己』における結びの言葉の一節で、「神があらゆる被造物に与えることのできた最高の善は、独自の存在であったこと、そして独自の存在であり続けることである」(HW 4,423f.)と説くように、私たちは物理的にも精神的にも有機的な仕組みのなかで、固有性をもって生きる被造物、人間であることにプライドを持ってよいのであり、またプライドを持たなければならない。

ヘルダーの『愛と自己』の基盤をなしている思想は、愛や友情において、自己の固有の存在性をいかに保持するかということである。「汝はなんといっても有限的で、個的な被造物である。汝は完全性を渇望するが、しかし決してそれを持つことはない。汝は、このたった一つの享受の泉で倒れてはならない。立ち上がり、努力を続けよ!」(HW 4,420)とヘルダーは鼓舞する。ヘルダーは人間が万物のなかにあって有機的な存在であるとともに、自由な存在であることも説く。他方で、シラーの『哲学的書簡』で説かれる敬虔で啓蒙的な思想は、シラーが同時代の啓蒙思想の従順な継承者であることを示す。またカール学院時代に著された有徳論や最初の卒業論文『生理学の哲学』も、M.メンデルスゾーンやChr.ガルヴェ等の道徳的かつ宗教的な色彩の強い思想を継承するものである。しかし、シラーが戯曲の創作活動において描き出している青年たちは、『群盗』の青年カール・モールにせよ、『フィエスコの反乱』の青年貴族フィエスコにせよ、『たくらみと恋』の宰相の息子フェルディナントにせよ、そして『ドン・カルロス』の王子カルロスとポーザ公にせよ、いずれも支配階級に属する青年たちでありながら、個人の自由と権利を蔑ろにする支配体制や因習に対して抵抗と反抗の狼煙をあげる。しかも、『群盗』で強烈な自己主張に終始するフランツは、愛の心を生の基調とする兄カールと対極をなしている。「俺の自我に対する尊敬を基礎としない愛を、俺は認められるだろうか。俺の自我は尊敬によって初めて成立するのだし、尊敬のあることが前提でなければならないが、そのような尊敬などというものはそもそも存在するのだろうか」(NA 29,19f.)と、フランツは自らを鼓舞し、愛の感情と自己の存在の関わりについて自問する。シラーは、同時代の啓蒙主義的な思想と同様に、自己を他者のなかに投入し一体化することに人間の普遍的な存在のあり様をみているが、しかしその一方で、愛の絆の束縛からも自由であることを希求する生き方をも描き出している。人間は、歴史的にも、神的存在を頂点とする自然を前にしたとき、自らの弱小なることを思い知らされてきた。人間は、自然を相手に、物理的には、とても太刀打ちできないことを、幾世代もかけて、歴史の過程で認識してきた。しかし、理性を武器とする人間は、神的存在に通じる神性の分有を自らのうちに仮定し、また神的存在を表象することによって、自己のうちに神的存在の像を内包させることを学び、神的存在や自然が振るう猛威を観念の世界で封じ込めることができるようになった。このような存在の安心を説く啓蒙主義的な思想を継承するとともに、シラーは愛の対極にある感情、つまり憎しみや飢えの感情をも人間の存在を留保する力、エネルギーを持つと捉える。憎しみや飢えの感情は、存在の不確実性に対する不安を掻き立てることもあるが、愛とは異なる生命力となって、自己の固有性の確立と維持に寄与することを、シラーは説いている。

シラーがその生涯に亘る文化活動において追い求める<伸縮自在な絆で結ばれ個人に奉仕する全体と、自己自身と一致し全体に適合する個人との中庸を得た共存関係を可能にする文化思想、文化形態のあり様>、人類の歴史を辿るならば、<古代ギリシャの地で開花していたと仮定されて憧憬される文化思想、文化形態のあり様[43]>は、『哲学的書簡』等の論説の形と、『群盗』等の戯曲の形をとったものを綜合したうえで初めて現れ出てくるが、ただし、この時期、シラー自身はまだこの綜合的な論説あるいは戯曲を十分には仕上げるまでには至っていない。私たちはこの綜合的な創出を、論説では『素朴文学と情感文学について』、戯曲では『ヴィルヘルム・テル』(1804)まで待たなければならないが、ヘルダーの『愛と自己』は、断片ながら、まさしくシラーが抱懐する生の課題に取り組んでいる論説であり、シラーの人間学的関心を惹くに十分足るものであったといえる。しかし、残念ながら、真の意味での両者の親交はまもなく幕を閉じることになる。

 

 

 

 



次の略語を用いている。

NA: Schillers Werke. Begruendet von J.Petersen. Nationalausgabe. Weimar 1943ff.同全集からの引用と参考箇所については本文中に記す。なお、略語に続く二つのアラビア数字は、順に巻数と頁数を示す。

HW: Herders Werke. Hrsg.v. Brummack, Juergen und Bollacher, Martin. Deutscher Klassiker Verlag. Frankfurt a.M. 1994. 同全集からの引用と参考箇所については本文中に記す。なお、略語に続く二つのアラビア数字は、順に巻数と頁数を示す。

 

[1] 『群盗』初演の様子については、次の書を参照されたい。Vgl. Hrsg.v. Gellhaus, Axel und Oellers, Norbert: Schiller. Koeln 1999. S.51ff.

[2] 1782年1月12/13-15/16日にシラーはマンハイム劇場での『群盗』初演を見るために、勤務地シュトゥットガルトを離れている。

[3] Vgl. Gellhaus, A. und Oellers, N.: Schiller. S.55 ただし、シラーの処分については、『群盗』の初演が他の国でなされたことに対して、カール・オイゲン公が立腹したためとする説もある。Vgl. Lahnstein, Peter: Schillers Leben. Muenchen 1981. S.102

[4] 1788年1月18日付けケルナー宛シラー書簡には次の記述がみられる。「私の詩的な春の花が枯れるときに、私が何で生きていくべきなのかを考えなければならないことは、正しいことだろうか、間違いだろうか。[・・・・・]」(NA 25,6)

[5] 前記の書簡には次の記述もみられる。「学ぶことが半分を行い、考えることが他の半分を行う仕事があります。[・・・・・]歴史の仕事のためには書物が私のために半分寄与します。」(NA 25,6)

[6] ワイマール到着直後の様子について、シラーは1787年7月23日付けケルナー宛書簡で詳細に報告している。Vgl. NA 24,105ff.

[7] 参照。1787年8月12日ケルナー宛シラー書簡では「ゲーテの精神が、彼のサークルに数えられる全ての人々の人柄を作り上げてしまっていた。[・・・・・]考え方は本当に健康的で善良なのですが、あまりに陶酔しすぎています」(NA 24,129)と、述べられている。

[8] シラーは、1779年に提出した卒業論文『生理学の哲学』が思弁的過ぎるとの理由で書き直しを指示されたために、翌年、更に二篇の卒業論文『炎性熱と腐敗熱の相違について』と『人間の動物的本性と精神的本性の連関についての試論』を提出している。

[9] ゲーテはヘルダーとの出会いについて、『詩と真実』第10章で記している。Vgl. Geothe

Werke. Artemis Verlag. Zuerich und Stuttgart 1948. Bd.10. S.441ff. また、ゲーテと

ヘルダーの邂逅については、次の書を参照されたい。Vgl.Staiger, Emil:Goethe. Zuerich und Muenchen 1978. Bd.1. S.78f. Hiebel, Friedrich: Goethe. Stuttgart 1911. S.52f.

[10]参照。「ゲーテは大変多くの人々によってある種の崇拝の気持ちで呼ばれており、作家としてより人間として愛され驚嘆されています。」(NA 24,131)1787年8月12日付けケルナー宛シラー書簡。

[11] 1787年12月19日付けケルナー宛シラー書簡には次の記述もみられる。「ゲーテがいつ帰ってくるかは定かでありせん。彼が国事から永遠に身を引くことは、決まったようなものです。」(NA 15,185)ゲーテがワイマールに戻ってきたのは、翌年(1788年)6月であるが、その後もゲーテとの接触はうまくゆかず、両者の真の意味での邂逅は、よく知られている1794年7月の自然科学者の会合まで待たなければならない。

[12] ヘルダーがシラーの創作活動について助言してくれたことに加えて、ワイマール近郊の森を散歩中に、ヘルダー親子に出会ったことや、ヘルダーの説教を聴くためにわざわざ彼の教会に赴いたことなどを、シラーは嬉々としてケルナーに報告している。Vgl. NA 24,124f.

[13] シラーはヴィーラント主宰の雑誌「ドイツ・メルクール」の協賛者として、同雑誌の刊行に加わり、また詩『ギリシャの神々』(1788)や『芸術家』(1789)を同雑誌に投稿している。

[14] Vgl. Riedel, Wolfgang: Die Anthropologie des jungen Schiller. Wuerzburg 1985. S.198

[15] シラーは、1787年8月8日付けケルナー宛書簡で、ユーリウスに彼の世界観を託している旨を明かしている。Vgl. NA 24,124f.

[16] カール・オイゲン公の愛人フランツィスカ・フォン・ホーエンハイム(国母として遇されており、後に正式に結婚している)の誕生日を祝する会で、シラーは二度指名されて講演を行っている。その時の講演が『過度の善意、親切や大きな寛容も最も狭い意味において徳に属するか』(1779)と『結果からみた徳』(1780)である。

[17] 参照。次のように、自己犠牲を厭わない言葉が発せられる。第5幕第3場ポーザ大公「フランドルのために御身を大切にしてください。王国があなたの使命です。あなたに代わって死ぬことが私の使命でした。」(NA 6,298)第5幕最終の場「あなたを所有するより、もっと気高い、もっと望ましいことがあることに、私はようやく気づいたのです。」(NA 6,336)

[18] 参照。新約聖書、マタイによる福音書第5章。

[19] 幼少年時代のシラーについては、次の書を参照されたい。Gellhaus, A. und Oellers, N.: Schiller. S.18ff.  Alt, Peter-Andre: Schiller. Muenchen 2000. Bd.1. S.68ff.  Safranski, Ruediger: Friedrich Schiller. Muenchen 2004. S.30ff.

[20] 参照。東北薬科大学『一般教育関係論集』第15号、20011-26Chr.ガルヴェ(Garve, Christian 1742-98)

[21] 参照。東北薬科大学『一般教育関係論集』第23号、200925-60

[22] Vgl. Garve, Christian. Gesammelte Werke. Bd.11. A. Fergusons Grundsaetze der Moralphilosophie. Hildesheim 1986. S.135, 409f.

[23] Immanuel Kant Werke. Darmstadt 1964. Bd.Y.S.59

[24] 若いシラーがイギリス道徳哲学と大衆哲学の思想から大きな影響を受けていることについては、次の研究書を参照されたい。<シラーとファーガスンに関して> 内藤勝彦:シラー研究 第一巻。南江堂 1972. 7-81頁。<A.ファーガスンとChr.ガルヴェに関して> Wiese, Benno von: Friedrich Schiller. Stuttgart 1959. S.76ff. <18世紀の啓蒙思想家一般に関して> Riedel, W.: Die Anthropologie des jungen Schiller. S.154ff. Safranski, R.: Schiller. S.61ff. Riedel, W.: Die anthropologische Wende, Schillers Modernitaet. In:Friedrich Schiller, Die Realitaet des Idealisten.  Hrs.v. Feger, Hans. Heidelberg 2006. 35ff. Alt, P.Schiller. Bd.1. S.243ff.

[25] Vgl. Alt, P.Schiller. Bd.1. S.105f

[26] Garve, Chr.: Werke. Bd.11. S.135.

[27] Mendelssohn, Moses: Phaedon. (Deutsche National-Literatur.) Tokyo 1974. Bd.73, S.317.

[28] Ebenda S.317.

[29] Ebenda S.317.

[30] Ebenda S.317.

[31] Plotins Schriften. Bd.1a. Hamburg 1956. S.25 なお、訳出にあたっては、次の書を参考にした。水地宗明、田之頭安彦訳:プロティノス全集 第一巻。中央公論社 1986. 297-298頁。

[32] 人間が神性を自己のうちに宿しているという人間観は、終生に亘って変わることはなく、また人間が神のごとく完全なる存在になりうるという根拠にもなっている―ただし、人間が有限な存在性から免れないことの指摘もされている。『人間の美的教育書簡』(1795)に次の言葉がうかがえる。「どの人間も、素質と使命からいえば、純粋で理想的な人間を、それ自身のなかにもっており、変転する自己のなかでその不変の統一に合致することが人間存在の大きな使命である。」(NA 20,316) 「神性への素質を人間が自己の人格性のなかにもつということは、否定できません。この神性への道−決して目標に到達しないものを道と呼んでよければ―は彼の感覚のなかに開かれています。」(NA 20,343)「どの人間も、素質と使命からいえば、純粋で理想的な人間を、それ自身のなかにもっており、変転する自己のなかでその不変の統一に合致することが人間存在の大きな使命である。」(NA 20,316)

[33] 参照。ユーリウスは「神」の章で次のように述べる。「愛は、私たちが神に等しい存在(神的相等性Gottaehnlichkeit)へと昇ってゆくための梯子です。」(NA 20,124)

[34]「俺には自然に対して憤慨する当然の権利がある。俺の名誉にかけて、俺は俺の主張を通すつもりだ。どうして俺は母親の胎内から長男として這い出さなかったのか。どうして一人子でなかったのか。どうして自然は醜さというこの重荷をおれに背負わせなければならなかったのか」(NA 3, 18)と、恨みと憎しみの言葉を吐くフランツの姿は強烈な印象を与える。彼の恨みの対象は、不公平な扱いをする自然に向けられている。

[35] Chr.ガルヴェは「神の摂理は生あるものすべてを、常に同じ道で、諸々の力の鍛練を通じて、完全性に導く」(Garve, Chr.:Werke. Bd.11. S.324)と、もっと明確に述べている。

[36] Vgl. Riedel,W: Die Anthropogie des jungen Schiller. S.195ff.  Alt, P.Schiller. Bd.1. S.109ff.

[37]筆者は、若いシラーが抱懐する永続的生の思想と現世的存在の位置付けについて考察を加えたことがある。参照。松山雄三『若いシラーの死生観について』。日本ヘルダー学会「ヘルダー研究」第 6号、2000年、121-145頁。

[38] 成立史については以下を参照されたい。Vgl. HW 4,1162f. Alt, P.: Schiller. Bd.1. S.245f.

[39] 34参照。

[40] 参照。「自然は俺たちに発見の力を付けてくれて、俺たちを裸でみすぼらしくも、この大きな大洋のような世界の岸辺に置き去りにした。泳ぐことのできる者は、泳げ。不器用な者は破滅するがいい。俺はどうすれば良いか。自然は俺に何も持たせてくれなかった。だから、それは俺が決めることだ」(NA 3,18)とフランツは決意する。

[41] Fr.W.カンツェンバッハは、『愛と自己』において、最高の段階にある愛と自己の存在性、即ちわが子や大切な者のために供する無私的行為と、愛において自己認識に達している者のアイデンティティの問題が取り扱われていることを示唆する。Vgl. Kantzenbach, Friedrich Wilhelm: Selbstheit bei Herder. In: Hrsg.v. Sauder, Gerhard: Johann Gottfried Herder 1744-1803. Hamburg 1987. S.18

[42] 注27)参照。

[43] シラーが『素朴文学と情感文学について』(1796)で述べている言葉<牧歌は「もはやアルカディアに戻ることのできない人間をエリュシオンにまで導く」(NA 20,472)が想起される。なお、古代ギリシャに寄せるシラーの関心が、ヘルダーによって惹起されたと捉える解釈があり、今後の研究課題の一つにしたい。ただし、次に挙げる研究書は概説的なものであり、文献に基づいた実証的な研究が必要であると思っている。Vgl. Harder, Hans-Bernd: Johann Gottfried Herderein Zeuge der deutschen Klassik aus dem Lande Preusen. Frankfurt a.M. 2000. S.86ff. また、注37)で言及したFr.W.カンツェンバッハは、『イデーン』(1784)において取り扱われている<Selbstheit>についても論じており、関心が惹起される。Vgl. Kantzenbach, F.W.: Selbstheit bei Herder. In: Hrsg.v. Sauder, G.: J.G. Herder. S.14ff.

 

本稿は科学研究費補助金(課題番号 21530785)の助成を受けたものである。