仙台ゲーテ自然学研究会「プロテウス」第4号。19999月。

 

 

神・自然・人間 (一)

─若いシラーの世界観をめぐって─

 

                                                松山雄三           

 自らを「自然のなかを彷徨う孤独な異邦人」[i]と評し、すさんだ人間社会への参入を拒み、激しい怒りの言葉をたたきつけている青年シラーではあるが、その意図するところは人間精神の陶冶を図り、人間愛の絆によって育まれる至福な市民生活を築き上げることにある。 特に、レンゲフェルト姉妹(Caroline、Charlotteとの邂逅は、「精神的完全性」の思想と「愛の哲学」に基づく[ii]、シラーの理想の炎を以前にも増して燃え上がらせ、清純な愛の世界について、自分自身の差し迫った問題として考察する機会を、シラーにもたらすことになる。

 戯曲『ドン・カルロス』の完成後、シラーは自らの詩的想像力の枯渇に苦悩し、また詩的天才と哲学的考察力の均衡を欠く表出故に、不安定な精神状態に陥る。そのような時期にシラーは詩的活動における行き詰まりから抜け出るために、またワイマール公の知遇を求め、そしてなによりもゲーテの理解を得るために、ワイマールの文化サークルに接近を試みる。1787年夏にシラーは、Chr.v.カルプの強い勧誘もあり、ワイマールを訪れることになる。残念ながらワイマール公とゲーテは不在中であったが、それでもシラーはヘルダーやヴィーラントの深い教養思想に触れることができ、彼自身の文化的素養を少なからず養うことができたのだった。しかし、翌年、シュタイン夫人たちの尽力によって実現したゲーテとの最初の出会いは、必ずしもシラーの期待に沿うものではなく、またワイマールの文化の担い手たちに窺える貴族趣味や閉鎖的な人間関係に、そしてあまりに強すぎるゲーテの影響に、シラーはかえって反発を覚えるのであった[iii]。しかもその後まもなく、シラーはイエナ大学に職を得てイエナの地に移住するのではあるが、その地においても大学の同僚との人間関係の悪化に苦しめられ、ますます精神的に追い詰められていく。そのような、シラーの期待にまったく反する苦しい人間関係のなかで、シラーはレンゲフェルト姉妹の温かい心に触れ、彼女たちに熱い関心を向けていくのであった。

 1789年9月にシラーはレンゲフェルト姉妹に宛てて、「やっとこの日をやり過ごすことができました。この一日で、私は貴女たちにますます近づけたような気がします。時間はなんと緩慢に過ぎてゆくのでしょうか。でも、貴女たちのそばにいるときには、時間はなんと耐えられないほど早く過ぎてゆくのでしょうか」(NA 25,291) との熱い言葉で始まる書簡を送る。更に続けてシラーは次のように述べる。

 

   私の生活の歩みのなかに貴女たちの姿が現れてから、私のまわりのすべてがなんと変わってしまったことでしょう。光の輪のように貴女たちの愛が私のまわりを囲み、芳ばしい香りのようにその愛が私の全身を覆っております。[・・・・・]私たちが自然に与えるものによってのみ、自然は私たちを魅了するのです。自然が備えている優美さは、その観察者の魂のなかにある内面的な優美さの反映に過ぎません。そして私たちの姿を写して、私たちを驚かすその鏡に、私たちは寛大に口づけをするのです。[・・・・・]これまで幾度も太陽は沈み、これまで幾度も私の想像力はそれに言葉と魂を捧げてきましたが、今ほどそのなかに私の愛を読み取ったことはありません。(NA 25,191f.)

 

 レンゲフェルト姉妹に宛てたこの書簡は、自然と人間をめぐるシラーの世界観を表しているだけでなく、彼の思考様式そのものをも明らかにしている。シラーは、レンゲフェルト姉妹─妹シャルロッテは後にシラーの妻になる─に寄せる愛の言葉のなかで吐露するように、愛する者に寄せる清純な愛を仲介として、自然のなかに自己の心を移入することによって、自然の優しさや美しさを享受するのである。シラーにとって、自然の優しさや美しさは、自然を観察する者の心の反映であり、またこの観察者の存在基盤と共通の中心をもつ自然そのものの本質の現れでもある。自然という対象を前にするとき、人間はまず自己自身を自然のうちに放射し、次に、ただしそのときには自然と一体となった自己を、自然からの反照のかたちで捉えるのである。それ故、自然のなかに自己移入する者の心が怒りや悲しみで満ちていれば、そこに現れるのは冷厳な自然であり、愛する心を抱く者が自然を観察するのであるならば、そのときには優しさや慈しみを示してくれる自然があるのである。P.ベックマンはシラーとシャルロッテの往復書簡に窺える両者の自然観の相違について言及し、シャルロッテからは「自然と心の内奥から打ち解け合って暮らしていて、自然のリズムに合わせ、まったく自然に依存し、自然のなかに安らぎと調和を見出している印象を受ける」[iv]と述べるが、シラーの自然観については次のように指摘する。

 

   シラーは自然のなかに─ハーマンやヘルダー、ゲーテと異なり─成長と消滅をともなう有機的な営みに溢れる生の流れや、形成と再形成を探し求めることはなく、合法則性、《静かな創造的な生、自分自身からの静かな作用、自分の法則に従った存在、内的な必然性、自己との永遠の一致》を探すのである。[・・・・・]自然はまさにそれ自体理性を持たず、それは盲目的な必然性に過ぎない。それ故、シラーの見解に従えば、我々が自然に感嘆する瞬間に、自然はそれ自らを示しているのではなく、我々を見せているのである。[v]

 

 シラーにとって、自然の認識とは自然という外的対象を直接にそのまま捉えるのではなく、自己の内面に一端立ち戻り、自己の認識原理に従って外的対象である自然を把握することなのである。自然問題と認識問題を密接に結び付けて考察するという十八世紀の思考方法に特徴的な傾向が、シラーの思考にも明確に窺える。

 そしてシラーは上記の書簡で「私の心は今では度々、未来の場面を描いております。[・・・・・]カロリーネはピアノに向かって座り、そのそばにロッテがいて [・・・・・]」(NA 25,293) 、と早くも未来の生活に思いを馳せているが、それもその筈、愛を基調とする生活こそ、故郷の地を出奔して以来、苦難多い生の歩みを辿りながらも、少数ではあるがA.シュトライヒァーやChr.G.ケルナー等の友人知己の、物心両面にわたる好意ある援助に支えられ、生きてきたシラーが追い求めているものなのである。

 そもそも若年の頃よりシラーは、神と自然、そして人間のかかわりについて考察を加え、それらを相互に結び付け、まとめる絆としての普遍的な愛の力に、その関心を向けている。つまり、神と自然に対する愛は、神の完全性への敬愛と絶対的な信頼の情を、そしてその完全性を模倣する喜びを惹起し、また人間に対する愛は自他共存の至福な生への歓喜をもたらす、とシラーは主張する。シラーがその生涯を賭して追求する生の課題は、「人間であること」(NA 20,100) であるが、その際シラーが究極的に要請する人間の姿とは、人間本来の完全な精神を取り戻した人間像である。つまりシラーは、後に『素朴文学と情感文学について』において明らかにするように、理性の覚醒によって「素朴な」アルカディアをあとにしなければならなかった近代人が、精神的陶冶を究極にまで押し進めることによって、遂には「牧歌的な」エリュシオンの住人になることを、求める[vi]。シラーは近代人としての自覚から、精神の素朴性を無意識的に保っていた古代人とは異なる人間のあり方を、彼の同時代人に、そして近代人に要請する。人間文化の発展の過程で避けがたく喪失してしまった素朴な心情を、ただ空しく追想するのではなく、永続的な精神的純化の果てに、創造主の御心に等しい完全な精神の域に到達する道を、シラーは彼自身と近代人に求める。『群盗』のカール・モールが非情な人間社会に怒りの刃を振り下ろしながらも、ときには汎神論的な感情に浸り、郷愁の念に駆られるように[vii]、その作者シラーにも冷厳な人間社会に対する憤怒の念とともに、否、それ以上に人間の心に寄せる熱い信頼の念、人間愛が沸き上がり、理想的な人間像と世界像をその生涯にわたって追い求め続ける。現実世界の人間のあり方に対して鋭い批判の言葉をぶつけ、理想の王国を求めて、その視線を未来世界に向けているシラーではあるが、かといってシラーは自らの、また他者の、現実世界における人間としての存在に見切りを付けているのではない。「シラーはある崇高な立場から話しており、その地点は理想と人生のほぼ中間にある。それ故、彼は天上のものの明るい域を見上げるとともに、恐怖の現象をも見下ろしている。そのいずれにおいても、彼は異邦人である」[viii]、とE.シュタイガーがシラーの苦悩に満ちた生の歩みについて分析的に考察を加えているように、そのような、人間存在の本質にかかわる生の苦悩は、若年の頃よりシラーに付いて廻る。それはまさに近代文化の形成の過程で喪失してしまった、純朴で人間的な生を取り戻そうとする詩人の心の内奥からの叫びなのである。それ故、「人間であること」に積極的に存在の意義を見い出し、完全な人間精神の形成を不断に要請するところに、近代の詩人シラーの魅力があるのであり、またそこにシラーの苦悩がある。シラーの言辞に度々窺える彼の同時代批判と近代批判、更にそれらの批判的な思想の別様の表出でもある古代賛美と理想主義的な世界観は、決して現実逃避的な、あるいは現実拒否的な思想から発するものではなく、現実の人間と人間社会の精神的、文化的向上を希求する故の、理想主義的な姿勢から生まれ出るものである。

 

 

二           

 完全な人間精神の育成を求めるシラーの人間形成論は、既にカール学院時代のシラーの言説に窺える。いわゆるカント体験以前のシラーの世界観は、シラーの故郷シュヴァーベン地方に静かに浸透していた敬虔主義的な宗教観と、Chr.ガルヴェの仲介によってドイツ思想界に伝えられたイギリスのA.ファーガソンの道徳哲学、そしてガルヴェ自身の倫理観、さらにM.メンデルスゾーンやJ.G.ズルツァー等の、いわゆる通俗哲学から、強い思想的影響を受けている[ix]。そしてその思想的支柱をなしているものは、人間愛と宇宙愛に基づく理想的な世界の構築を訴える「幸福への愛」(Liebe zur Glueckseligkeit) の理念と、人間精神の究極的な純化を求める「完全性」(Vollkommenheit)の理念である。しかも、「完全性」の理念に関して特徴的なことは、シラーが、神の完全性に等しい精神形成を目指す「神との相等性」(Gottgleichheit)の理念をあたためていることである。これらの思想は、領主カール・オイゲン公の思われ人、フランチスカ・フォン・ホーエンハイムの誕生日を祝して草せられた『過度の善意、親切や大きな寛容も最も狭い意味において徳に属するか』(1779年1月)や『結果より見た徳』(1780年1月)、そして再提出を余儀なくされた最初の卒業論文『生理学の哲学』(1779年秋)に、早くも窺うことができる。

 シラーは、「幸福への愛」こそが人間を道徳的な行為に駆り立てる行動欲求の源泉であると考え、幸福の概念を「最小の不完全性を伴う最大の完全性の総量が、最小の苦痛を伴う最高の満足の総量である。これが幸福である」(NA 20,11)と定義する。しかも、シラーはこの「幸福への愛」を、彼の生涯の探究課題である人間精神の完全化の思想に結び付け、「私が、人間は幸福になるために存在するのだと言おうと、完全になるために存在するのだと言おうと、どちらでも同じことである。人間は幸福であるときにのみ、完全なのであり、完全なときにのみ、幸福なのである」(NA 20,11)と述べる。B.v.ヴィーゼが「宇宙論の幸福主義的なオプティミズムに、人間学的・道徳的なオプティミズムが一致している。精神的な完全性へ向けた個々人の発展が、人類全体に貢献するのである」[x]と指摘するように、シラーが完全な人間精神の育成を追求するのは、個人のみならず人類全体にとっての人間本来の幸福を招き寄せるためであり、シラーにあっては、幸福の概念と精神的完全性の概念はまさしく一体不離の関係にある。

 それでは幸福、つまり精神的な完全性をもたらす「愛」を、シラーはどのように捉えているのだろうか。シラーは次のように述べる。

 

   愛、人間の魂のなかで最も美しく、最も高貴な衝動、感受する人間と人間を繋ぐ偉大な鎖、それは私自身と隣人の存在の交換以外のなにものでもない。そしてこの交換は喜びである。それ故、愛は隣人の楽しみを私の楽しみにし、彼の苦痛を私の苦痛にする。(NA 20,11)

 

   魂と魂を結び付けるものが愛である。愛とは、無限な創造主を有限な被造物のところに導き、また有限な被造物を無限な創造主のもとへと高める。愛とは、限り無い精神の世界をただ一つの家族にまとめ、無数の精神を、万物を愛する父なる神の息子となす。愛とは被造物のなかで息づく第二の生命である。愛とは、あらゆる思惟する人間を相互に結び付ける偉大な絆である。(NA 20,32)

 

 シラーは「愛」を、創造主と被造物、「感受する人間と人間」、「思惟する人間と人間」、つまり「魂と魂」を相互に結び付ける「偉大な絆」と呼ぶ。シラーが抱く「愛」の理念は、個に対して全体の優位を安易に唱えるものではなくて、個人間の愛の絆をも重んじ、個性と人間性の結合をもたらす普遍的な愛のことであり、自己を他者のなかに没入させ、その他者のなかに自己の存在を確認できる自他超越の歓喜を惹起させる。自己を他者に譲り渡すのではなく、自己を他者の幸福のなかに発見する喜び、つまり自己の存在を放棄することなく、他者の、ひいては全体の幸福を招き寄せるために、そのなかに自己を組み込んでいることに対する喜びである。しかも、自己を他者、全体のなかに滅するとは、自己の完全なる精神の形成によってのみ、初めて成就できるものであるから、それは自己完成の歓喜でもある、とシラーは主張する。畢竟、個人の幸福の追求が全体の幸福を成就することに通じ、人間としての個人の自己完成は他者の自己完成を、それはつまるところ人類全体の高尚な精神の育成を図ることに通じる。しかも、シラーは「諸々の(物質)世界を順次にめぐらせ、太陽を永遠の鎖に繋ぎとめる万有引力が物質界において働いているように、精神の世界にあってもそれに劣らず普遍的愛という絆が存在する」(NA 20,32) と愛を位置づける。つまり、普遍的な愛の力によって結び付けられ、まとめられる体系的な秩序のもとに、シラーは人間の個別的な存在性を尊重しつつ、それを普遍的存在性へと高めていくことを要請する。E.カッシーラーは次のように指摘する。

 

   神的な芸術家の心が私たちにとって最も純粋なかたちで感じられ、はっきりと知られるところは、個別的な存在者の直接の生命ではなくて、それらが結び付けられ、まとめられた体系的な秩序である。この秩序は、物質界では万有引力という現象において、精神界では愛という現象において、私たちの前に現れる。自然的な存在の領域では、物質のどんな部分でも、普遍的な法則に従って、宇宙全体と連関するように、心の領域では、各個人が自分自身を越えて、万有の感情によって貫かれることを求める。[xi]

 

  シラーにとって世界というものは、その根源に人間個人の生の原理と共通のものを持ち、しかも人間のみならず、諸々の個的存在を調和的に包摂する一つの体系として現れる。そしてシラーは、諸々の個別的な力の間に調和のとれた秩序を見出すことによって、そこに万有の神性の顕現を捉える。それ故、人間個人にとっての最も崇高な実存とは、自分を他者に、究極的には全体のなかに投入し、それを自己確認の鏡として、そのなかに他者と全体の至福に貢献する自分を再認識し、そのことに自己自身の存在の充実を体感できることにある。そして他者と全体の至福を自己の至福に置換できる、自他超越の歓喜を惹起させるのが、まさしく普遍的な愛の力である。

 しかし、シラーは愛の力だけで自己完成を成就できるとは考えていない。愛は人間の最も純粋な感性的な本性の発露であるが、人間を感性的本性と精神的本性の混合体と見做すシラーにとって、人間のもう一つの本性である精神的な本性との相互補完的な交換があって初めて、愛はその力を充分に発揮できる。二つの異なる本性、愛と悟性(智恵)は相互に相手のなかに浸透し、補足しあいつつ均衡のとれた心意状態を惹起しなければならない。そしてシラーは愛と悟性(智恵)の調和のとれた心意状態を徳と呼び、次のように述べる。

 

   徳の本質はなにか。悟性に伴われた、幸福への愛以外のなにものでもない。徳とは愛と智恵の調和のとれた絆である。[・・・・・]徳とは神と人間に対する愛である。誰が智恵なくして神を愛しえようか。誰が悟性なくして人間を愛するだろうか。繰り返すが、徳とは愛と智恵の調和のとれた絆である。」(NA 20,4)

 

   諸々の精神を完全にすること、そしてそれ自身の完全化によって幸福であることができる思惟する精神の状態は、徳である。(NA 20,31)

 

  シラーは、「被造物との関係において、神の本質は愛と智恵である」(NA 20,4) と述べているように、神とは最高に調和のとれた、無限な愛と無限な智恵であると捉える。それ故、シラーが要請する自己完成、つまり完全な人間精神の形成という目標は、神を模倣すること、神の本質である無限な愛と無限な智恵を我がものにすることによってのみ達成できるのである。

 しかも、道徳的に行動する人間と、愛している人間にとっては、心の動機が行動の道徳的な価値を決め、感情の真実性を決める。行動の成果と愛の成就は、自己の精神的完全性の形成に向けて努力している人間にとっては副次的なことである。なぜならば自然な傾向性となった道徳的な行動と、自己の利害を目的外とする無私的な愛は、行為と感情の純粋性の追求というその絶対的な目標を、それ自身のなかに持つからである。利己心と自己の目的思考にとらわれ、本来の人間的な品位を失った人間の心を、他者への、ひいては全体への無私的な貢献という純粋な心意状態に溶解させること、それが道徳的な行為と愛の神秘的な力である。しかも個的存在にとって、全体の至福の招来に向けての無私的な奉仕は、シラーの見解によれば、厳しい闘いを通してのみ達成される。「非常に美しくとも、闘わずして行われた行為は、大きな闘いを通して得られたものに比べて価値がない」(NA 20,6) とシラーは述べる。徳の均衡を危うくする誘惑的な、あるいは脅迫的な状況の前に人間が立たされたときこそ、人間はその徳の真価が問われる。それ故、ソクラテスの故事は、若いシラーに、二つの強い衝動の間で毅然として行動する人間の雄々しい自由を示す。一方には「人間の魂を襲う、最も強い衝動」(NA 20,3) 、実践的な生への執着があり、他方には精神の陶冶によって地道に、しかし確実に得られた、より高尚な至福への、ただし現実世界での実存を諦観しなければならない道がある。シラーはソクラテスの毅然とした死の選択に感動し、次のように述べる。

 

 「ソクラテスはなにを選ぶか。─最も賢明なことを。今、おお智恵よ、お前は毅然とした自由を示す─死─消滅─不死─天の王冠─封印、血塗られた─偉大な─彼の新しい教えの力強い封印─鋭敏な悟性の最後の毅然とした自由─毅然として─毒を仰ぎ─死─不死─彼の教えを力強く封印し─最高の戦い─最高の悟性─崇高な愛─最も高尚な徳。星散らばる高い天のもと、これ以上の崇高なことが果たされたことはなかった。」(NA 20,3f.)

 

  この感動する心が示すものは、崇高な自由を示す行為に対する称賛である。それは、ときとして揺れる現実的な生への執着のなかで、それでも毅然として、より高尚な心意を求めて、現実世界での生を諦観するに至った、崇高な心情に寄せる心からの賛美である。

 

 

  しかも、シラーは、創造主(神)の完全性に等しい完全な精神の形成を、人間の使命と見做している。シラーは次のように述べる。

 

   人間は、創造主の偉大さを獲得するために、存在する。人間は、創造主が世界を見渡すのと同じ眼差しで、世界を見渡すために存在する。神と同じくなること(神との相等性)が人間の使命である。このような人間の理想は、なるほど無限に遠い。しかし、精神は永遠である。永遠が無限のための物差しである。すなわち、精神は永遠に成長を続けるであろうが、その目標に到達することは決してない。(NA 20,10)

 

   我々が更に高く登り、そして精神的存在の完成とは神性を模倣すること、神性を喜ぶこと、そして神性を賛美することをその最高の目標に掲げることである、と理解するときには、神性の特性とこのように等しく、このように合致すること、このように神性を喜び、賛美することが、すべての道徳的行為の尺度であるに違いない。(NA 20,31)

 

 シラーは、「今世紀の一賢者は、神の摂理のプランをその全体において見渡すまでに開悟せる魂が最も幸福な魂である、と言っている」(NA 20,11)、あるいは「人間は自然の偉大なプランを眺望し、研究し、感嘆するように定められている」(NA 20,12)と述べて、人格の精神的な向上に努め、遂には人間個人に定められた制限を越える自我の拡張を果たし、無限な創造主の精神に等しい精神の獲得を人間に要請する。丁度、太陽の光がプリズムを通過すると、分散するように、神の手によって世界のなかに分散させられている、しかも暗号のように書き込まれている神の意志を読み解くことが、遂には神が人間のために配慮している幸福と完全な精神の形成に至る道を見出すことに通じる、とシラーは主張する。シラーの根源的に敬虔主義的な思想とオプティミズムに基づく世界観が吐露されている。B.v.ヴィーゼは次のように指摘する。

 

   世界─宇宙─は神によって、つまり最高の思惟する存在によって、あるプランに沿って作られている。このプランを考察することは、人間にとって幸福を意味する。なぜならば、そのことは被造物のなかに広められているあらゆる完全性の総量について、そしてそれとともにあらゆる可能的な幸福の総量について、同時に思考のうえで関与することになるからである。[xii]

 

 しかし、B.v.ヴィーゼが「無限な、決して到達できない目標へ向けてのこの道─なぜならば、目標への到達は人間と神が同等になることを意味するのであるから─は、人間の発展段階を越えるものである。人間は同時にすべてのものであることができず、また全体のプランに自己を組み込まなければならないように制限を受けている」[xiii]と述べるように、有限な人間の身で神のプランを考察し、その絶対的な力を認識するなどということは、いかにして可能なのであろうか。このことに関して、シラーの思考様式を明確に表す、次のシラー自身の言葉が解明の鍵になる。

 

   表象とは、世界の変化に等しい魂の変化以外のなにものでもない。そしてその際に、魂はそれ自身の自我をその変化と区別する。それ故、私は表象の瞬間に、私が表象するものとまったく同じものになっているのであり、人格だけが私の自我をそれから区別し、それが外的な変化であることを私に教える。(NA 20,19)

 

 後に、W.フンボルトはシラー宛の書簡において「あなたの場合、毀誉がひとつになっているのはどの点かと申しますと、結局、客観性に対する主観性の優位ということに帰着します」(NA 38-1,330) と述べて、シラーの思考様式の特質を指摘するように、シラーにとって表象とは、表象する者が対象からの働きかけを待ってその作用を受容することではなく、あくまでも表象者の方から対象に働きかけることによって成り立つものである。その際、表象者は自己の固有な存在原理に従いながら、対象のなかにその固有性を投入するのであるが、その固有性は対象の存在原理と調和的に一体となって、その対象から反照のかたちとなって表象者に戻ってくる。しかも表象者は自分自身以外の存在の原理を他に求める必要はなく、それでいて対象の純粋な存在原理も同時に我々の前に現れ出る。なぜならば、表象者が抱いている存在原理は対象のそれと同じ源泉から発している、とシラーは捉えるからである。それ故、シラーは無限な神に接近し、その偉大さを学ぶことを人間の使命と見做しているが、シラーにとって表象者が神を表象するときには、表象者自身が神に連なる心意状態を持していることになる。つまり神の完全性を表象するときには、表象者が自身の存在原理のなかに抱いている神的完全性に則ってそれを表象しているのであり、そのとき表象者自身も完全な精神の持ち主になっていることが可能なのである。しかも、表象者が心のなかに抱いている神的完全性の原理は、神の配慮によって配されている、とシラーは見做す。

 

シラーの世界観の中心概念をなしているものは、その生涯を通じて精神的な「完全化」の原理であり、カント体験以前においては「普遍的愛」の力を通じて形成される完全な人間精神の状態であった。この完全な精神状態をシラーは自他超越の歓喜を伴う「幸福」の状態と呼び、これを人間のあるべき本来の姿、理想的な心意状態と見做す。そしてその崇高な目標である、最高完全性としての神の徳に向けて、人間は自然に発する道徳的な行為と無私的な愛を通じて、不断に接近することが使命なのである。このシラーの思想はその実践的結果を問うものではなく、自然な傾向性となった道徳的な行為と無私的な愛のうちに、しかも時間という制限性を越えて、永遠なるものへの接近を目指すという、まさしく理想主義的な精神に燃える、ただし現実的な人間の生の向上をあくまで祈願すればこその、シラー自身の熱い自己表白である。



[i] Schillers Werke. Begruendet von Julius Petersen. Nationalausgabe. Weimar. H.Boehlaus Nf. 1943ff. ( 以後 NA と略し、同全集からの引用箇所については本文中に記す。なお、略語に続く二つのアラビア数字は、順に巻数と頁数を表す。) Bd.25, S.4.

[ii] Vgl. Buchwald, Reinhard: Schiller. Leben und Werke. Wiesbaden 1959. S.188ff.  Wiese, Benno von: Friedrich Schiller. Stuttgart 1959. S. 76ff.  内藤克彦『シラー研究』第一巻。 東京。1972年。 五頁以降。 Riedel, Wolfgang: Schiller und die popularphilosophische Tradition.  In: Schiller- Handbuch. Hrsg. von Koopmann, Helmut. Stuttgart 1998. S.155ff.  

[iii] シラーとゲーテの邂逅については、次の研究書を参照されたい。Vgl. Buchwald: a.a.O. S.459ff.  Lahnstein, Peter: Schillers Leben. Muenchen 1981. S.248f.

[iv] Boeckmann, Paul: Schillers Geisteshaltung als Bedingung seines dramatischen Schaffens. Darmstadt 1967. S.24f.

[v] Boeckmann: a.a.O. S.25. なお、この引用文中でベックマンが引用しているシラーの言葉については、NA 20,S.414を参照されたい。

[vi] Vgl. NA 20,472.

[vii] Vgl. NA 1,168f.

[viii] Staiger, Emil: Friedrich Schiller. Zuerich 1967. S.29.

[ix]青年期シラーの思想的発展に及ぼす通俗哲学の影響については、本論の続編において考察を加えたい。

[x] Wiese: a.a.O. S.100.

[xi] Cassierer, Ernst: Freiheit und Form. Darmstadt 1975. S.277.

[xii] Wiese: a.a.O. S.99.

[xiii] Wiese: a.a.O. S.100.