仙台ゲーテ自然学研究会「プロテウス」第6号。2003年3月。
神・自然・人間(三)
─二つの卒業論文をめぐって─
松山雄三
T
シラーの生涯に亘る文化活動を概観するとき、そこには詩人、哲学者、そして歴史研究家としての資質が相互補完的に作用しあっており[i]、常に思惟する人間としての彼自身の本質の強烈な、それでいて自然な発現が窺われる。そしてシラーがその生の目的とするところは、観念的な世界においてであろうと、現実的な世界においてであろうと、「人間であること」(NA 20,100)の真理を追究することである。シラーの詩的創作作品や美学哲学論文、そして歴史書に接すれば接するほど、詩的な創作と論理的な思考の一体化、調和への努力、そして肯定的な視点であれ、否定的なそれであれ、人類文化の流れのなかで捉えようとする真摯な人間探求の姿勢に惹かれ、彼の思想から彼の内奥の独自性へと、われわれは突き進む。1800年9月初旬のシラー宛書簡でフンボルトが「あなたの場合、毀誉が一つになっているのはどの点かと申しますと、結局、客観性に対する主観性の優位ということに帰着します。
[・・・・・]自分自身の内面的な傾向の力が、外的な印象以上にあなたの上に働くことができるということは、私にとって疑い得ないことのように思えます」(NA 38-1,330)と評するように、シラーの内奥から沸きあがる理想性に富み、かつ独自性強く形成された彼の人格が、繊細な感性を媒介とする対象との接触において自然に、かつ鮮明に表出する。しかも世界内存在であることを免れない人間が人間として果たすべきことは、自然の支配に無為に服することでもなければ、自然との過酷な対決に無謀にも身を晒して破滅することでもなく、内在する諸力の自由な展開に支えられて、人間の尊厳を保持しつつ生を享受することである。つまり自由を闇雲に主張するだけでなくて、自己完成という課題を自らに課し、共同的な存在として自然や同胞、つまり他者との偽りない連帯のうちに生を貫徹する歓喜を、シラーは説く。例えば、頌詩『歓喜に寄せて』において自由と友愛の喜びが詠われているように─次の一節など、「世のしきたりが厳しく分ったものを/おまえの不思議な力は再び結び付ける/おまえの優しい翼がとどまるところ/全ての人間は兄弟となる」(NA 2-1,185)─まさにシラーの言葉は、理想の人間像に向けての人間啓蒙であり、理性的・感性的な存在である人間をそれぞれの力に応じてその存在の価値を開花させ、自然の仕組みのもとへの自発的な参入を勧奨する導きの声なのである。そこで本論においては、2篇のカール学院卒業論文、つまり『生理学の哲学』と『人間の動物的自然と精神的自然の連関について』を中心に[ii]、2)若いシラーの世界観について、特に自然観について考察を加え、かつシラーの思想的形成の萌芽を探りたい。
U
詩的創作作品においてであれ、美学哲学論文においてであれ、シラーの自然描写や自然観に接するとき、そこには自然が提示する実際の風景のリアルな描写より、シラー自身の詩的想像力と理知的な考察力によって創造された自然像が色濃く浮かび上がってくる。つまりシラーにあっては、観念的な表象活動の結実として現出される自然像が外的な自然物より優勢なのである。自然に対するシラーのこの傾向性が特に明白に窺えるものとして、シラーがレンゲフェルト姉妹と取り交わした書簡を引き合いに出すことができる。時期的には、シラーがイエーナ大学に職を得ることができ、この姉妹の妹の方であるシャルロッテとの結婚を控えているときである。故郷の地を出奔して以来、苦難多い人生を余儀なくされてきたシラーではあるが、ケルナーとの友情に続く心安らぐ姉妹との交際である。静かな心の安寧のうちに、シラーと彼女たちは様々な現実的な事柄や将来の夢を語り合い、また自然に対する異なる姿勢をも素直に明らかにする。なかでもシラーの婚約者シャルロッテは自然のなかに生の安らぎを見出し、彼女の方が自然のリズムに合わせて生の至福を享受している。そこに窺われるのは神、自然の配慮に感謝する敬虔な心情であるが、受動的な生のあり方といえる。しかし、シラーは、シャルロッテと異なり、自然の美しさや自然の崇高さに接する際に惹起される独特な感動の根拠を自然の作用に求めずに、彼自身の心のなかで織り上げる自然についての表象の結実に帰す。シラーによれば、自然はその固有の自然的記号を用いてその構成の原理を開示しているが、人間がそれを直接に読み取ることはできない。なぜならば、人間の認識行為は人間が案出した恣意的記号を用いて編み上げられるからである。それ故、自然の本質を読み取るためには、自然的記号で書かれているはずのものを恣意的記号で解読しなければならないが、その両記号の媒介を可能にするのが解読者、観察者自身の自己なのである。つまり、観察者が観察の対象である自然に自己を投影し、その自己を通して自然の構成を浮かび上がらせることにより、観察者の側から自然を捉えることが可能になる。われわれが見ている自然とは、自然自体ではなくて、われわれ自身の心を媒介とした自然の像なのである。まさしく、「観照に向かうときには、見ているものを、見られるものと同族に、似ているものにしなければならない。つまり、もしも目が太陽のようでなければ、如何なる目も太陽を見ることができないであろう。同様に、美しくならなかった魂は美を観ることはできないのである」[iii]と述べているのは、新プラトン主義者プロティノスであるが、シラーは更に観察主体者の主観の作用領域を拡大し、自己投影的に自然対象物に観察者の心の美や崇高さを感知する故に、自然の美や自然の崇高さについての表象が成立すると主張する。つまり、自然観察者が自然対象物から感じ取る印象の内容は、実は観察者自身の内面の自己投影的な表出なのである。シラーはシャルロッテに次のように述べる。
私たちが自然に貸し与えるものを通じてのみ、自然は私たちを刺激し魅了するのです。自然が身に着けている優美さは、自然を観察している者の魂のなかの内面的な優美さの反映に過ぎないのです。そして私たちは、私たち自身の像で私たちを驚かす鏡に寛大に接吻をするのです。[・・・・・]人間を通じてのみ自然は多様になるのです。私たちが新しくなるので、自然は新しくなるのです。(NA 25,292)
実はこのような表象概念については、既に『哲学的書簡』においてユーリウスが明らかにしている。
美なるもの、真なるもの、卓越するものを観察するということは、即ちこれらの特性をそのとき所有することなのです。どのような状態を知覚するにしても、私たち自身がその状態のなかに入って行くのです。私たちがそれらについて思惟する瞬間には、私たちは徳の所有者であり、行動の開始者であり,真理の発見者であり、また至福の持ち主なのです。私たち自身が感受する客体になるのです。(NA 20,117)
シラーは自然に窺える理性適合性を強調し、自然が人間の理性に対する適合性を示す限りで、自然を称賛の対象として捉える。確かに、自然はそれ自体では理性を持たず、盲目的な必然性の支配下にある。しかし、シラーの見解によれば、人間が自然に驚嘆し賛美する瞬間に、自然は、自然自体を見せているのではなく、人間の心を反映している。人間の人間たる所以は自らの意志、理性的な思弁に従って自由に生きることにある。シラーは自然のなかに創造の神秘、独自の法則に従う存在性を求める。しかし自然はシラーにとってそれ自体の存在の神秘を自ら明かし、神の完全性を自ら開示する存在ではない。自然は神の完全性の投影であり、神の鏡像であるが、自然自らはその持する合法則性を独自な自然的記号を用いて暗示することはあっても、自発的な開示を仕事としない。理性の代表者である人間だけが、自ら作り出した恣意的な記号(文字や数字、音符等)を用いて自然法則の神秘、原理を探り当てることができる。それ故、自然に寄せる感激が生じ、自然と人間との間で存在の波長の共鳴を感得できるのは、自然対象物に合法則性の充足を感じられるように、人間が表出の形式と自然素材を一致させようと努めるからである。またその解明の努力が人間の使命なのである。結局、シラーにとって自然は、その存在の神秘の解明を人間に課すものであり、完全性へ向けての人間の自律的な自己形成の結実として明らかにされる存在である。転写を通じてのみ、しかも自然の対象物が人間の理性の形式に応じる場合にのみ、人間は、人間の自己を媒体として形成した像である自然に関心を寄せる。それ故、人間が外界の自然対象物に感動を覚え、自然の存在に感謝の念を抱くのは、自然が人間の理想とする完全性を反映するからなのである。自然が示す存在の神秘は、実は人間理性が内包する神秘なのである。
E.カッシーラーはフンボルトのシラー像を引用しながら次のように指摘する。
卓越した自発性というこの動機から、また<いわば、自然が彼に対して完全に働きかけ得るよりも前に、シラーが既に自発的に自然に向かって急ぐという事実から>、実際に彼の哲学的な発展と芸術的な発展のあらゆるモメントも導き出せる。それは彼の活動に内的な力を与え─そして同時にまたゲーテが彼にしばしば感じたあの暴力的なものという特徴をも与えるのである。[iv]
もっともE.カッシーラーは、シラーが客観性に対する主観性の優越を彼自身の思弁的な発展において、特に美学的な探求において、「芸術家としてより、思想家として」解消し、主観的なものと客観的なもの、理念と経験の「最も完全な相殺」を見出したことに言及し、「常に新たに創作は彼に考察を指示し、考察は彼を創作に戻す。創作と考察の綜合のなかで自由の主体的な情熱は、その客観的な支点と基礎付けを得るのである」[v]と結んでいる。
E.カッシーラーが指摘するシラーにおける主観性と客観性の綜合は、いわゆるカント体験を経てその超越的思想としてシラーが美的自由の理想概念を確立するまで待たなければならない。しかし、シラーは早くから人間的な生についての自覚をもって自らの生に対処した人物である。シラーはカール学院での最初の卒業論文『生理学の哲学』のなかで、人間の使命が「神と等しくなること」(神的相等性)にあると説く。
人間は、創造主の偉大さを闘い取り、創造主が世界を捉えたのと同じ眼差しで、世界を捉えるために存在するのである。神と等しくなることが人間の使命である。(NA 20,10)
シラーは、被造物である人間が神の完全性を体得することを自分自身に、彼の同時代の人々に、そして後世に生きるわれわれに要請するが、敬虔な宗教人となることをわれわれに求めているのではない。シラーは人間を神によって造られたものとして規定する。その神によって造られたものが神の完全性に近づくことを、シラーは求めるのである。そして神の完全性とは、神の創造のプランを体感・認識できる力、そして神によって付与されている諸々の力が完全に発揮される心意状態への到達を意味する。ただし、シラーの世界観にあっては、神−自然−人間の秩序関係が崩れることはない。それ故シラーは、被造物である人間が神の代わりを務めること、神と同様な万物創造の仕事を果たすことを要求するのではない。
神的な摂理の計画を全体において眼前にするほどに啓発された魂は、最も幸福な魂である。(NA 20,11)
完全性とは自然の偉大な計画を眺望し、研究し、驚嘆することである。(NA 20,11)
さらに、およそ一年後に書き上げた卒業論文『人間の動物的自然と精神的自然の連関について』においても、人間の動物的な(感性的な)自然を媒介として神の創造プラン、宇宙、自然の構成についての感得・認識を要請する傾向が顕著にうかがえる。「肉体は活動への最初の拍車であり、感性は完全性への最初の梯子である」(NA 20,56)という言葉にも窺えるように、総じて、初期の論文においては、幸福の原理と完全性の原理の把握を求めて、神の創造の意図と自然の秩序構成を感受する感性に、生の指導的な役割を託する思想傾向がみられる。もっとも、シラーの神解釈と自然解釈はあくまでも観念的な思弁に基づくものであり、このような思弁構築のための導入的な役割を感性の作用に託している。『哲学的書簡』において「宇宙は神の一つの思想である」、(NA 20,115)「神と自然は、完全に同じである二つの偉大である」(NA 20,123)、「自然は無限に分かたれた神である」(NA 20,124)といった言葉が度々窺われるように、シラーの神−自然解釈によれば、宇宙、自然は神の創造による思想の像であり、その自然のなかに人間は無数に分割されている神の鏡像を見ているのである。それ故、自然のなかに人間が見ているのは神そのものではなくて、常に神の鏡像なのである。神自身が自然のなかに直接的に赴くことはなく、神は自然のなかに自らの姿を投影しているのである。それ故、個々に分かれた自然物のなかに投影されている神の鏡像をいかに整えるかは、人間の感受力にかかっている。人間の感受力が包括的であればあるほど、人格形成が豊かであればあるほど、人間は神を神の完全性のなかによく感知・認識することができる。全ての自然内存在が神の意図に基づく所与の存在使命、つまり自然秩序の構成部分であり維持部分を担っていることを認識しながら、人間は自然に対処しなければならない。しかも、シラーにとって、対象を感受・認識するとは、感受者・認識者に内在するある原理に従って対象のなかにその自らの原理の投影を捉えることであるから、それ故、神の完全性を捉えるとは、当然に、人間のなかに神の完全性が内在していなければならない。しかし、人間は神の完全性の内在をいかにして可能にするのであろうか。人間の資質が我欲を排し、宇宙内であれ、社会内であれ、そして家族内であれ、その共同体の全体性において活動することによって、活動の道徳性、つまり完全性は達せられると、シラーは説く。シラーの諸主張では、人間精神の善行に寄せる絶対的な信頼感が支配的である。
全ての精神は完全性によって引き付けられる。[・・・・・]全ては、即ち善として、卓越として、魅力としてそれらが認識するもの全ては、活動を広げるために、全てを自己に引き付けるために、自己自身のなかに集まるために、諸力の最高の自由な外化の状態を求め、全ては共同の衝動を所有する。(NA 20,117)
融和的な共存において、あらゆる力が人間に課せられた使命、即ち「人間であること」の認識と実践に貢献する。人間の全ての資質がその使命を果たすべく、創造のプランによって配されている。しかも、神の創造は完全であるので、人間がその使命を果たすべく生の活動に赴くときに、そのために必要な資質に過不足が生じることは決してない、とシラーは信じる。ここにも、シラーの道徳的な世界構成に寄せる絶大な信頼の情と、楽観主義的な思想が溢れ出ている。
天賦の資質の耐えざる開花努力によって、自然の大小の事物のなかに美、偉大、卓越を感得できるようにすることを通じて、そして『結果より見た徳』等の論文でも説かれている愛の引力に支えられて、人間は神の完全性に接近することができ、かつ同時的に同胞と結びついていることから同胞の至福をも招来する。B.v.ヴィーゼが「ファーガソンの場合と同様に、シラーにあっても人間は、自然によって課せられた使命の完遂を人間社会において見出す存在である。それ故、徳への愛は同時に人間への愛である」[vi]、あるいは「世界の部分が万有引力によって相互に繋がれているように、人間は、社会性や友情によって相互に属する。自然と人間世界において支配しているのは、同じ精神的な法であり、シラーはそれを愛と呼ぶ」[vii]と指摘するように、共同体内存在者としての愛の哲学、自他超越の愛の精神が説かれる。
V
シラーは3篇の卒業論文を書いている。その3篇とは、『生理学の哲学』、『炎性熱と腐敗熱の相違について』そして『人間の動物的自然と精神的自然の連関について』である。W.リーデルは「3篇の論文のうちで、熱に関する論文だけは狭義で医学的なテーマを扱っている。それに対して他の2篇は医学と哲学の中間領域を動き回っている」[viii])と解説する。また、P.A.アルトは、このうち二番目の論文『炎性熱と腐敗熱の相違について』に関して、「病気の形態についての詳細な記述に努めており、可能的な臨床上の処置についての短い解説がその都度その記述に付け加わっている」[ix]と評し、「この分野での必要な実践的な経験を、シラーが病院実習のあいだに集めたのである」と指摘する。この熱に関する論文だけは多分に、医学的な臨床経験に基づく内容であると思われる。筆者は残念ながらこの医学論文を手にする機会が持てなかったため、その内容についてはW.Riedelや A.P.Alt等の先行研究の成果に依存するしかないが、本論の考察意図から判断して、この医学論文を考察の対象から外しても構わないと考える。他の2篇の論文は、共に医学的な内容というより、思弁的な人間認識論的な傾向が濃厚である。感性と理性、肉体と精神、そして世界内存在と自立した存在という二重の存在である人間にとっての生が問われる。そして両論文が示すこの思弁的な傾向はシラーが意図するところでもある。シラーは『人間の動物的自然と精神的な自然との連関について』の冒頭でカール・オイゲン公に宛てた献辞で次のように述べる。
殿下は、ヒポクラテスの学を機械的で稼業的な学問の狭い領域から哲学的な学説のより高尚な地位に高めたのです。哲学と医学は相互に最も完全な調和をなしております。医学は哲学にその富源と光を与え、哲学は医学に関心と尊厳、そして魅力を伝えます。私は本年になってから、両者と知り合いになろうと努めてまいりました。この短い論考は私の意図を正しく伝えるものです。(NA 20,38)
しかし、何よりも両論文において特徴的なことは、人間の精神的な力と肉体的な力との間で仲介役を果たすものが探求されていることである。それが『生理学の哲学』に窺える中間力(Mittelkraft)の仮説であり、『人間の動物的自然と精神的自然の連関について』において論じられる肉体と精神の平衡状態、完全な状態についての推論である。
W.リーデルが、『生理学の哲学』に窺えるシラーの研究姿勢を「生理学と心理学の統合」に基づく論証を求める同時代の医学的な要請に、そしてその実際的な研究テーマとしての「肉体と精神が相互に実際に影響しあっているという仮説」の学的な証明に応じたものであると見做し、かつこのテーマの論証の難しさについて「この人間学的な意図が明らかであろうとも、これはシラーを哲学的な医学研究者と同様にあまりにも解き難い体系的な問題の前に立たせている」[x]と述べるように、シラーは外界から人間の内面の世界への伝達、物質界と精神界の関係の秘密を探ろうとするが、学的な論証に難渋する。シラーは外界の事物についての像を人間の心に映じる過程を、心理学的に捉えようとする。シラーの解釈によれば、外界の事物の像は人間の動物的な自然によって受け止められ、動物的な自然の働きで物質的な印象に変化する。人間の本性に物的なものに対する感受力を仮定し、それを人間の動物的な自然の作用に見て取るのである。しかし、証明が困難なのは、この物質的な印象を全く異なる精神にもたらす過程である。そこでシラーは物質的な自然から精神への伝達を行う力としてある力を仮定し、それを中間力と呼ぶ。
物質(つまり、その作用が表象されるべきもの)と精神との間に実際にある力が存在する。この力は世界とも精神とも全く異なる。私はそれを遠ざける。すると、精神に及ぼす世界のあらゆる作用はなくなる。しかし精神は残る。さらに対象も残る。その喪失は世界と精神との間で隙間を生む。その存在は精神の周りのあらゆるものを照らし、目覚めさせ、生気を与える。私はそれを中間力と名づける。(NA 20,13)
私自身は千もの熟考を通じて次のような確信に到達した。即ち、中間力は無限に細かい、単純な、可動的なもののなかにあって、そのものは神経のなか、運河のなかを流れる。それを私は基本的な火や光、エーテル、電気的な物質、そして磁気的な物質とは呼ばずに、神経精神と呼ぶ。そして将来、中間力と呼ぶだろう。(NA 20,16)
肉体と魂の相互的な作用を探求するための中間力の仮説は、論文の表題が既に示す通りに思弁的、哲学的である。しかし、W.リーデルが「若いシラーはいずれにせよ、肉体と魂の関係を精神の物質化によってか、あるいは形而上学的な介入によってか、一方によって解明することを避けようとする。好意的にみれば、第一に魂の非物質化、即ち実体二元論、そして第二に同時に両実体間の自然な作用、即ち自然な影響が、精神物理学的な関係の受容可能な理論のためのシラーの条件である」[xi]と指摘するように、問題解明に対するシラーの姿勢に窺える折衷主義的な思考は、肉体的な力と精神的な力の相互的な、自然な作用関係の解明に対するシラー自身の要求に基づく。それはまた、思考傾向として台頭する気配を見せ始めていた唯物論的な思考に対する警告でもある。
『人間の動物的自然と精神的自然の連関について』に関して、A.P.アルトが「この論文は第一の論文の思弁的な傾向を避け、人間という有機体における精神物理学的なプロセスの経験的な観察を一生懸命に試みている」[xii]と評しているように、受理されたこの卒業論文は肉体と精神の密接な関係、特に精神の活動に及ぼす肉体の影響関係を経験的に、臨床的な観察に基づいて証明することによって、心身間の連関の秘密を探り、心身の均衡ある状態の惹起を図るという認識論的、医学的、人間学的な探求を使命にしている。ここで、魂の状態と肉体のそれとの相互的な強い影響が、さらにまた精神的なものと感性的な感情系統の作用関係が考察される。シラーはこの論文の論及姿勢について次のように述べる。
当該の試論は、むしろ魂の活動に対する肉体の特記すべき寄与、精神的なものへ及ぼす動物的感覚系統の偉大にしてかつ現実的な影響を鮮明にすることにしよう。しかし、それだからといってこの論文は決してエピクロスの哲学でもなければ、徳を最高善と見做すストア主義の論説でもない。(NA 20,41)
ただし、シラーがこのように論文の冒頭でわざわざ人間の動物的な自然、感性の作用の論述に焦点を合わせていることを強調するのも、「通常の方法は、肉体の軽視を伴うほどに精神力が肉体の依存外で考えられ、あまりにも精神を当てにして書かれたことで、間違いを犯してきた」(NA 20,40f.)という伝統的、かつ同時代の思考傾向に対する反省の上に立つものであって、人間を肉体と精神の混和体と捉えるシラーは、その調和的な思考に従って論及する。シラーは、人間が本来的な存在であるために、つまり宇宙・自然の体系と人間社会の体系におけるその存在の使命を達成するために、肉体的・精神的な諸力の相互的な補完に基づく人間形成が必要であることを、論じようとする。
肉体の活動は精神の活動に応じる。即ち、精神活動の緊張は常にある肉体的な行為の緊張を結果に伴う。前者の均衡、精神の諸力の調和的な活動は、後者の最も完全なる一致と結びついている通りである。魂の不活発は肉体の運動を不活発にし、魂の無活動は肉体の運動を全く停止する。完全性は常に快と結合し、不完全性は不快と結合しているから、それ故この法則を次のように表現することができる。精神的な快は常に動物的な快を持ち、精神的な不快は常に動物的な不快を伴う。(NA 20,57)
シラーは精神と肉体を「二つの同じ調子の弦楽器」(NA 20,63)にたとえる。つまり、肉体の喜ばしい弦は、精神のうちに喜ばしい弦を振動させ、肉体の悲しい調子は、精神のうちに悲しい調子を呼び起こす、と説明される。しかし、われわれの関心が惹起されるのは、肉体的なものと精神的なものとの交互的な作用の結果、そこに人間の動物的自然と精神的自然との「混和」が生起し、さらにまた、人間の動物性と精神性との交互的作用のうちに、人間の高尚な心意状態が成立するという理論である。『生理学の哲学』で説かれている「中間力」概念からの発展的な論考として、人間の動物性と精神性との高尚な「混和の状態」についての概念が導き出されている。ちなみに、この心理学的概念は、まもなく『道徳的機関としてみた演劇舞台について』等で説かれる演劇使命論の根底を支える人間精神の「中間的状態」という概念へと発展を示し、さらに人間の美的精神について説かれるように、人間の究極的な理想の心意状態である美的な人間論へと続く。
シラーは、動物的自然と精神的自然とのこの高尚な混和の状態を人間の完全な状態と呼ぶ。もちろん、この完全性の思想は、『生理学の哲学』で探求されている人間の使命論、つまり神的相等性の概念と、肉体と魂との間の均衡ある仲介を果たす中間力の仮説を引き継いでいる。人間の「完全性は、人間諸力の可能な限り最高度の活動と、その相互的従属関係のうちに成立する」(NA 20,41)のである。つまり、完全性とは人間の動物的衝動と精神的衝動との調和的な活動として捉えられる。シラーにとって、人間の完全な状態は、人間の幸福な状態を意味し、従ってまた快適な状態でなければならない。また「あらゆる出来事から快適を汲み出し、そしてあらゆる苦痛を宇宙の完全性のうちに解消する術を心得ている心の状態」(NA 20,58)こそ「徳」にほかならない、と説くシラーの「徳」論によれば、それはまた同時に一つの善き状態をも意味する。
R.リーデルが最初の卒業論文『生理学の哲学』について「伝えられた論文のテーマは、感情と知覚、思考と意欲に際しての肉体(感覚器官、神経、脳)と精神の相互作用であり、即ちプラトン主義の人間学の対象以外の何ものでもない」[xiii]と指摘するように、そしてこの指摘は『人間の動物的自然と精神的自然の連関について』にも妥当することであるが、結局、諸能力の調和的な発展の必要性が説かれ、肉体と精神の平衡的な形成に基づく理想的な人間形成が要請されている。肉体と精神を個別的に、分断的に考察するのではなくて、精神医学的な、かつ人間学的な視点から、両者の相互的な作用関係を綜合的に探る考証例の提示は、シラーが人間に内在するあらゆる力の相互補完的な発展に基づく肉体的・精神的に調和ある人間の形成を願うからである。
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このような若いシラーの世界観に目を向けるとき、次第に明らかになること
は、シラーの思考傾向の萌芽が既に彼のカント研究以前にうかがえることである。幾多の先行研究が論証する通り、確かにシラーはその思想的な発展において度々、カントの影響を強く受けている。またそうしたカント受容について、シラーは自ら認識し、かつ書簡等で告げている。特に、先行研究においても度々引用されているように、1793年2月18日付けケルナー宛書簡で次のように述べるシラーの言葉は、カントに寄せるシラーの感激と驚嘆を的確に表している。
このカントの言葉以上に偉大な言葉が、死すべきものによって語られたことはありません。そしてそれはカントの全哲学の内容です。即ち、汝を汝自身から規定せよということです。理論哲学における言葉も同様です。即ち、自然は悟性の法則下にあるのです。(NA 26,191)
確かに、シラーはカントの批判哲学思想を無批判的に全面的に受容したのではない。しかし、シラーにとって決定的なのは、カントの個々の思想ではなくて、シラーに思考的な形式を伝えたことである。シラーはカントの批判哲学思想のなかに個体と万物の関係、共同体内における精神の独自な積極性、他律的な規制を排する自我の発現のあり方を再発見したのだった。シラーにあっては、自我がそれ自身のなかに見いだす自由な積極性は、あらゆる判断の本来の出発点になっている。この思考形式はシラーの自然観についても当てはまる。考察対象である自然のなかにシラーは神の完全な創造のみを見ているのではない。確かに、シラーは、自然の生成が因果律の必然性に支配されていることを認識している。しかし、シラーは人間が自己の存在の意義を自覚しなければ、自然の脅威の前に不安に駆られる人生を送らざるを得ないことも認識している。シラーは、理性的な覚醒を経た人間だけに、自然と向かい合える生の享受が可能であることを訴える。
人間は理性的な存在であるだけでなくて、同時に自然の一部でもある。つまり、人間は二つの世界に住まう存在である。しかも、人間は理性的な存在としては自立していることが望まれるが、自然の王国においては他の被造物と同様に自然必然性の指示に物理的に抗うことはできない。そしてこの存在の二重性が人間を絶え間ない自己葛藤に陥らせる。その上、既述したように、シラーにとって人間は感性的な存在と理性的な存在の混和体である。感性的自然と理性的自然を混和的に持する人間が、一方の王国では自らの意志に従って治める立場を保たなければならず、他方の王国では支配の法則に服していなければならない。この相反する生の姿勢を貫徹しなければならないところに、シラーは人間の存在的苦悩を甘受し、その葛藤の止揚的な解消に無常の生の安らぎを覚える。ここに、シラ?がその多彩な出来事を伴う人間世界を観察し、彼自身の生を形成しようと意図する根拠がある。それは自然との対決であり、かつ自己との対決でもある。シラーがある時は自然と自由、ある時は感性と理性、そしてあるいは傾向と義務と記すところの、この二つの力の緊張のなかで、シラーは生への強靭さを得る。その生は高く聳える天上の世界を目指すかと思うと、常に、足元の大地を失う危険のなかにある。この避けがたい存在の二重性のなかで、人間は本来的な人格の形成と状況の改変を目指して活動しなければならない故に、その個人的な運命の波乱が生じるのである。
しかし自己(人間)と外界(自然、世界)という二つの極は、対決するだけでなく、世界に対する人間の肯定的な関係をも規定する。人間の感性的−理性的な自然は、二重の方向、自己と外界に向けられている。障害を乗り越えて、両方向への関係を満足させる道が確立されなければならない。感性的−理性的な存在である人間にあって、観念的な存在はそれ自体では存在の基盤を確保できず、一方、物質的な存在は観念的な存在から隔離の状態では意味がない。観念的存在と物質的存在は共生を求めて、相互的に求め合わなければならない。両者は境界を接する支配領域を持ち、両者に対して人間は全く特定の使命を持つ。人間は内在する独自の法に従って、あらゆる外的なものを形作らなければならない。個人が力と深みを得れば得るほど、理性は自由を得るし、世界を理解すればするほど、自己の法則に従って、自己の外にあるものを再構築できるのである。しかも受容性が多面的に形成されればされるほど、人間は多様な世界を把握し、その持する資質を豊かに発展させることができる。
このようなシラーの世界観、自然観は自然より人間の理性を一方的に優位に立たせることになる。確かにそれは自らの理性の声に従う自律的な人間の形成に大きく寄与する。しかし、先に引用したフンボルトのシラー批評にも窺えるように、そのような考察傾向は人間形成において肯定的な面とともに否定的な面をも伴う。一方の力の偏った強調により、平衡ある状態、美的状態の現出を妨げることにもなる。
この思想的な歪みの矯正は、後の美学的な探求まで待たなければならない。特に、『素朴文学と情感文学について』や『人間の美的教育書簡』において、自然と理性と呼ばれている対概念が経験界とのより強い結合のもとに、レアリストは自然の必然性によって規定され、理想家は理性の法によって規定されると説かれる美的な思想の探究まで。
しかし、若いシラーは次のような立場を採る。即ち、人間は自然の必然性の法則と自己の理性の声との間で選択する自由を得ている。人間が所属するこの二つの領域のどちらに優先権を与えるかという責任は、人間にある。人間がその自立した姿勢を自然に対して主張するときにのみ、そして人間がますます感性的なエネルギ?を精神的なエネルギ?によって自己規制しようと努力するときにのみ、人間は人間的な理想を満たすことができる。
しかし如何にして理性の声を実践的な行動において具現化するか、使命に忠実であるために、人間はどのような具体的な姿勢を勝ち取らなければならないかという問題が残る。自然の物理的な力は相変わらず権利を保持し、人間を支配下に置こうとする。それ故、個人の尊厳を保守し、しかし感性の力を否定しない生の形式を見つけることが肝要になる。
人間は、その想像力の遊戯を通じてのみ、自然の合法則性についての自らの意識を自由に自然に移せる。自然自体はそのことについて何も知らず、人間に形式を示すだけである。しかも自然は人間に人間の存在の価値を保証することはできないし、それは自然の仕事ではない。人間は、人間の自己活動が自然と形式を一致させるときにのみ、人間自身のなかで、自然をそもそも尊重できる。時にはそうしたことが自然のなかで満たされているように見えることがある。そしてその時には、自然は人間にとって理想における完全性の現出なのである。
E.カッシーラーは若いシラーの文芸作品や哲学的論文に窺える思考的傾向性を分析的に考察し、次のように指摘する。
詩人としてまた哲学者としてシラーはこの時期に、彼が世界を彼自身の形象、即ち心に抱いている理想的な完全性の形象に従って創造する以外に何ら世界を所有していない。この点に彼の力と同時に彼の限界がある。芸術的な描出の真理,即ちシラーの情念の純粋性と純真性とは、その描出において詩人がそのまま自分の形姿化する一切にものになっていること―しかし視点を変えれば、彼には自分以外のものは一切形姿化できないということだが―に基づいている。[xiv]
シラーの青年期の哲学も絶対的な自然主義-唯物主義と形而上学的-美学的な超越性との中間に立つ。それはあらゆる素材的なものを愛の精神力に解消する。それは自然において唯一の現象を知る。即ち思惟する存在を。しかしそれは思惟する存在、即ち精神自体が物質に結び付けられ、物質のなかに解き難く編み込まれているのを見るのである。[xv]15)
実際に、多くの場合に、感性界との対決のなかで、人間はより高尚な自己をそれ自身のうちに惹起するように努めることができる。たとえ人間は明らかにはこの感性界との戦いで勝利を勝ち取らないとしても、あるいはたとえ自然に従わなければならない故に苦痛を甘受しようとも、人間は高尚な姿勢を示し、道徳的な自己をあらゆる感性的な対象に対して主張しなければならないし、主張することができるように、自己の人間形成に努めなければならない。そこにシラーの要請がある。
次の略語を用いた。
NA:Schillers Werke. Begruendet von J.Petersen. Nationalausgabe. H.Boehlaus
Nf.
Weimar
1943ff.(同全集からの引用箇所については本文中に記す。なお、略語に続く二つのアラビア数字は、順に巻数と頁数を示す。)
RS:W.Riedel:Schriften der Karlsschulzeit. In: Schiller-Handbuch. Stuttgart 1998.
RA:W.Riedel:Die Anthropologie des jungen Schiller.
Wuerzburg 1985.
CI:E.Cassirer:Idee und Gestalt. Darmstadt
1973.
CF:E.Cassirer:Freiheit und Form. Darmstadt 1975.
[i] K.H.HahnやB.v.Wieseは歴史研究者としてのシラーの資質とその功績を高く評価する。「シラーは常に―哲学者として活動していようとも、詩人として活動していようとも―同時に歴史家であったと言っても、過言ではないだろう。」Vgl.K.H.Hahn:Schiller und Geschichte. In:Friedrich Schiller. Hrsg.K.L.Berghahn. Kronberg 1975. S.25.「シラーは一人で哲学者であり、詩人であり、歴史家であった。」Vgl.B.v.Wiese:Friedrich Schiller. Stuttgart 1978.
4.Aufl.(1.Aufl.1959) S.355.
[ii] シラーは3篇の卒業論文を提出している。Philosophie der Physiologie(1779),Ueber den Unterschied
zwischen den entzuendlichen und den fauligen Fiebern(1780),Ueber den Zusammenhang der thierischen Natur
des Menschen mit seiner geistigen(1980).W.RiedelやP.A.Altによれば、このうち二番目に書き上げたUeber den Unterschied zwischen
den entzuendlichen und den fauligen Fiebernだけは医学的な考証に基づく論文であるという。後述するが、本論文の論及意図から判断して、二番目の医学的卒業論文については考察の対象外とする。三篇の卒業論文の成立史については次の研究書を参照。Vgl.RS S.547ff. P.A.Alt:Schiller. Muenchen 2000.
S.156ff. P.Lahnstein:Schillers Leben. Muenchen 1981. S.82f.
[iii] Plotins Schriften. Uebersetzt von R.Harder. Darmstadt 1956. S.25.
[iv] CF S.276 フンボルトのシラー像については1795年10月16日付けシラー宛フンボルト書簡参照。Vgl.NA 35,386.
[v] CF S.276.
[vi] B.v.Wiese:a.a.O.S.100 シラーはChr.ガルヴェ訳A.ファーガソン著『道徳哲学の原理』から強い影響を受けている。参照。拙論:若いシラーとChr.ガルヴェ。東北薬科大学一般教育関係論集15号。2001.1−26頁。
[vii] B.v.Wiese:a.a.O.S.100.
[viii] RA S.47.
[ix] A.P.Alt:a.a.O.S.173.
[x] RA S.61.
[xi] RA S.72.
[xii] A.P.Alt:a.a.O.S.177f.
[xiii] RS S.550.
[xiv] CI S.86f.
[xv] CI S.104f.