山下 剛 のページ
研究業績(2009年4月~)
【著書】
1.バルバラ・ボンハーゲ他著:世界の教科書シリーズ27 スイスの歴史 スイス高校現代史教科書
〈中立国とナチズム〉〔2010.2、明石書店〕(スイス文学研究会による共訳)
【論文】
1.ローベルトとクラーラ――クラーラ・シューマンの作曲活動をめぐって〔日本独文学会「研究叢書074
『生誕200年 ローベルト・シューマン――言葉と音楽――』」2011.6 pp.36-44〕
2.特集 ドイツロマン派とジェンダー――はじめに――〔東北ドイツ文学会「東北ドイツ文学研究」53
2011.6 pp.83-86〕
【小文】
1. コンサートの「語り」用シナリオ『メンデルスゾーン姉弟の音楽』[東日本大震災復興支援のための
講演と第6回『名もない花たちの演奏会』、エル・パーク仙台ギャラリーホール、2014.4.]
2.曲目解説[高橋麻子企画「音楽の旅 第八弾 ドイツより ~シューマンとブラームスの室内楽~」
常盤木学院高等学校シュトラウスホール、2012、10、コンサート、プログラム pp.3-4]
3.フェーリックス・メンデルスゾーン・バルトルディのスッコトッランド旅行を追体験して
〔郁文堂 「ブルンネン」474 2012.4 pp.7-9〕(フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
基金日本支部「会報」4 2012.5 pp。4-5に転載)
4. ベッティーナ・フォン・アルニムとグリム兄弟のベルリン招聘〔同学社「ラテルネ」105 2011.3
pp.9-11〕
5. ベッティーナ・フォン・アルニムとクラーラ・シューマン〔日本ゲーテ協会「べりひて」51 2010.5
pp.16-18〕
6.フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ生誕200年に寄せて〔郁文堂「ブルンネン」456
2009.3、pp.8-11〕
【翻訳】
1.ミヒャエル・シェーンハイト:1840年8月6日にライプツィヒの聖トーマス教会でフェーリクス・
メンデルスゾーン・バルトルディによって行われたオルガン・コンサートの音による再現に
関する見解[レクチャーコンサート(東日本大震災のためのチャリティコンサート)
「メンデルスゾーンがバッハ像設立のために行った募金コンサートとは?」
東北学院大学土樋キャンパスラーハウザー記念礼拝堂、2012、10、コンサートプログラム
pp.5-8]
【学会発表】
1.スイスに本拠地がある国際機関[スイス文学研究会(於明治大学)、2013、1]
2.19世紀スイス音楽史[スイス文学研究会(於明治大学)、2012、7]
3. ル・コルビュジエとアルベルト・ジャコメッティ〔スイス文学研究会(於明治大学)、2011.7〕
4. メンデルスゾーン姉弟とゲーテ〔日本ゲーテ協会「シンポジウム『ゲーテと音楽』」(於東京ドイツ
文化センターOAGホール) 2011.6.〕
5. ローベルトとクラーラ――クラーラ・シューマンの作曲活動をめぐって――(シンポジウム「生誕
200年ローベルト・シューマン――言葉と音楽」)〔日本独文学会春季研究発表会(於慶應義塾
大学) 2010.5〕
【講演】
1. メンデルスゾーン姉弟による慈善活動と視覚障碍者による復興支援[東日本大震災復興支援
のための講演と第6回『名もない花たちの演奏会』、エル・パーク仙台ギャラリーホール、2014.4]
2. 「名もない花たちの会」活動報告[東日本大震災復興支援のための講演と第4回『名もない
花たちの演奏会』、仙台市福祉プラザふれあいホール、2012、11]
3. 日本古典故事(日本の昔話)(昔話の語り:雲走範子、企画・運営・童謡の歌唱指導:山下剛)
〔上海新世界外国語進修学院 2011.6〕
4.メンデルスゾーン研究の現在――ファニーとフェーリクスの関係を中心に――〔成蹊大学
ロマン主義 日・英・独の比較研究(於成蹊大学)2009.11〕
【通訳】
1. ミヒャエル・シェーンハイト氏(ゲヴァンとハウス・オルガ二スト)によるレクチャー[レクチャー
コンサート(東日本大震災のためのチャリティ―コンサート)「メンデルスゾーンがバッハ像設立
のために行った募金コンサートとは?」 東北学院大学土樋キャンパス ラーハウザー記念
礼拝堂、2012、10]
【報告】
1.講演会『日本古典故事 (日本の昔話)』 の報告と雑感 〔東北薬科大学「一般教育関係論集」25
2011[2012.3発行] pp.135-141〕
2.Robert und Clara Schumann ----mit dem Fokus auf Clara
Schumanns kompositorische Aktivitäten----
〔東北薬科大学「一般教育関係論集」24 2010[2011.3発行] pp.113-116〕
【社会活動】
東日本大震災からの復興を支援するとともに障害者の社会参加を促すため、2011年3月に「名もない
花たちの会」を立ち上げ、様々な活動を行っている。次に主なものを挙げる。
1. 東日本大震災復興支援のための講演と第6回『名もない花たちの演奏会』(企画・運営)〔エル・パーク
仙台ギャラリーホール、2014。4.〕
2.七夕ティータイム・コンサート(企画・運営)[長町遊楽庵ぴすた~り、2013、7.]
3. 第5回『名もない花たちの演奏会』(企画・運営)[柴田町槻木生涯学習センター、2013.5.]
4. 東日本大震災復興支援のための講演と第4回『名もない花たちの演奏会』(企画・運営)〔仙台市福祉
プラザふれあいホール、2012、11〕
5. レクチャーコンサート(東日本大震災のためのチャリティーコンサート)「メンデルスゾーンがバッハ像
設立のために行った募金コンサートとは?(企画・運営)〔東北学院大学土樋キャンパス ラーハウザー
記念礼拝堂、2012、10〕
6. 「名作の語りを聴く会」(東松島市「お話の花束」・東松島市図書館による企画)で震災・津波被害者に
名作の語りと解説を行った[東松島市コミュ二ティーセンター、 2012、9]
7. 第3回『名もない花たちの演奏会』(企画・運営)[せんだいメディアテーク 7階・スタジオシアター、
2,012、7]
8. 視覚障害者のためのバリアフリー番組「燦々サロン」に出演[コミュ二ティーFMRADIO3、2012、6 放送]
日本とヨーロッパの名曲の数々』(企画・運営)ーサッポロビール株式会社仙台工場ゲストホール、
2012.4〕
10.第2回『名もない花たちの演奏会』―東日本大震災復興支援チャリティー企画―(企画・運営)
〔仙台市福祉プラザ・プラザホール、2011.11〕
11.ふれあいひろばミニコンサート(仙台市福祉プラザ第1回ロビーコンサート)(企画・運営)〔仙台
市福祉プラザ一階ロビー、2011.11〕
[常磐木学園高等学校シュトラウスホール、2011.5.]
【その他】
1. BS日テレ開局8周年特別番組「メンデルスゾーン幻想」監修〔BS日テレ、
2009.10, 2010.3 放送〕
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お知らせ
■2014年春 ドイツ語技能検定試験(独検)
試験日:6月22日(日)
願書受付:4月1日~5月16日(金)消印有効
メール(山下)
t-ymsht@tohoku-pharm.ac.jp
ベッティーナ・フォン・アルニムとクラーラ・シューマン 山下 剛
クラーラはベッティーナを、「きわめて才気に満ちた、気性の激しい女性である――音楽に関しては判断がまったく間違っているが――」、しかしユーモアに溢れていると思った。ベッティーナは18歳のクラーラの高い演奏技術に舌を巻いたが、しかしそのあまりの早熟ぶりには眉をひそめ、彼女の暗譜による演奏を「傲慢で不遜である」とみなし、第三者に向かってクラーラのことを、「これまでに出会った中でもっとも耐え難い女性芸術家の一人である」と語った。自らもピアノを弾き作曲もてがけていたベッティーナにしてみれば、音楽に関してはこの少女にはるかに及ばないことを認めざるを得なかった無念さもあったろう。ベッティーナの言動を伝え聞いたクラーラは、ベッティーナを「頭のおかしい女だ」とみなした。 この二人は三月革命が間近に迫っていた1845年にベルリンでまた会っている。この再会は、結果次第では後世に大きな影響を残す可能性をはらむものだった。このころベッティーナは作家としてだけでなく、王に対してすら臆することなく意見する社会運動家としても世に知られるようになっていた。その彼女の手許には、マルクスが発行する新聞『前進』に前年に発表されたハイネの詩『シュレージエンの織工たち』があった。詩が載ったビラはハイネから直接送られてきたものである。そこにはシュレージエンの織工の窮状と前年の蜂起、そして軍隊による鎮圧の様子が描かれていた。ベッティーナは、ベルリンのような都市部でも顕著になりつつあった貧困の問題を広く社会に訴え、さらに大きな暴動に発展する前に政府へ善処を迫ろうと考えた。そしてその手段として、クラーラの名声を必要とした。ベッティーナは、天才ピアニストでありすでにハイネの二三の詩に曲を付けていたクラーラに作曲を依頼しようとしたのである。王を侮辱したとの理由で政治的スキャンダルに巻き込まれて1842年にベルリンを去るスポンティーニのために、ベッティーナは彼に捧げる歌曲集を出版したことがあったとはいえ、彼女の作曲家としての影響力などたかが知れていた。ベッティーナはクラーラの前で、厳しい検閲のなか独自の連絡網から仕入れた暴動の推移を説明し、ルフランを強調するようにしてハイネの詩を朗読した。 古いドイツよ、我らはお前の経帷子を織る― 我らはそこに三重の呪いを織り込む― 我らは織る、我らは織る! クラーラは判断に迷った。当時のクラーラも3人の子どもと経済的にも精神的にも不安定な夫を抱えており、貧困の問題に必ずしも無関心ではなかった。クラーラには、義憤に突き動かされるように果敢に活動するベッティーナに敬意を表する気持ちもないわけではなかった。だが、この年配の女性は信頼に足る人物だろうか。以前はあれほど親しくしていたゲーテから、出入りを禁止された女性ではないか。それに自分の曲など夫の曲に比べれば取るに足らないものではないか。クラーラの胸にさまざまな思いが浮かんでは消えた。しかし、最大の問題は、クラーラがハイネの詩にこれといった共感を覚えることがなく、作曲へと触発されるものを感じなかったことである。 文学の才能には秀でていたが、音楽家としてはディレッタントの域にとどまるベッティーナ。逆に、幼いころから徹底した音楽教育は受けたが、ローベルト・シューマンに出会うまで文学とは無縁の生活を送ってきたクラーラ。ハイネの詩を前にして、二人の間には越え難い溝があった。こうして、ハイネとベッティーナとクラーラの共同作業はついに実現せずに終わったのである。 (東北薬科大学教授) 日本ゲーテ協会「べりひて」51号より転載 |