『東北薬学専門学校 戦没者追悼誌』をめぐって

                                                                                    松山雄三    
                                     Ⅰ

 私の手元に、一冊の戦没者追悼誌があります。『東北薬学専門学校 戦没者追悼誌』[1]と題するその書は、太平洋戦争で斃れた東北薬学専門学校の教師と学生の死を悼むために編まれております。この追悼誌刊行の企画は、東北薬学専門学校で、さらに東北薬科大学で永年に亘り教職に携わった故神久策教授(在職:昭和14-49年)を中心に、旧教職員と卒業生の有志によって進められ、しかも、戦後30 年目の年にあたる昭和50 6になってようやく実を結んだのでした。

 この追悼誌の冒頭に掲げられた趣意書[2]は次の言葉で締めくくられています。

 「戦没者と関係のあった当時の教官と学生の有志が戦没者を追悼し、その在学時、軍務服役時、戦場に於いて等の思い出を記して小冊子とし、永く追悼追憶せんとし、ここに東北薬学専門学校戦没者追悼誌を編集し関係者に頒布せんとするものである。(ⅷ)」

 本学では、1名の教師と40余名[3]の在学生・卒業生が戦争で命を落とされたのでした34,75,77)。特に第1回卒業生の戦没者の割合は、同期生(84名)の217名にも達しています。当時の学生たちは、戦時下のため、在学中には東北薬学専門学校報国隊(報国修練団)として勤労動員に駆り出され[4]繰上げ卒業後には殆どの者が兵役についたのでした。また彼等の中には、学業半ばで志願して軍務についた者が幾人もおりました。卒業生たちは、「くすり」の専門家でしたので、薬剤官として軍務に服した者もおりましたが、兵卒として銃を手に過酷な状況におかれた者もおりました。在学期間の短縮は、第1回生(昭和14520日入学)にあっては3ヶ月、つまり昭和1612月に卒業になり、第2回生から第5回生にいたっては6ヶ月も短縮され、9月の卒業になったのでした。
 この追悼誌の冒頭には、亡くなられた41名の方々の名前と写真が掲げられ、可能な限りの調査に基づき、没年月日と場所が記されています。戦死、戦病死、軍務中の殉職の他に、空襲・原爆による犠牲[5]、そして台湾への一時帰郷のために乗船した船舶の沈没による逝去が記されています。昭和18319日に、台湾に向かった客船高千穂丸がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。同船の惨劇で、当時は日本領であった台湾出身の4名の本学学生が命を失ったのでした(101,102,106)。

 
                                     Ⅱ

 この追悼誌に載せられております追悼哀惜の文を幾つか見てまいりたいと思います。
 ある教師は、戦後30年近くになって、ようやく戦没者追悼誌を刊行するに至った非礼を、戦没の同僚や教え子たちに詫びながら、かつ平和な社会の構築に向けて前進しつつある日本の現状を報告して、次のように述べています。

 「今や既に第二十九回終戦記念日が過ぎた。今になってやっと東北薬学専門学校戦没者追悼誌を編集頒布するに至ることは戦没の旧知に対して申し訳なく思う。
昭和二十年八月十五日の終戦以来、日本国内で種々のことがあり御遺族の方々にも幸い生き残った我々にも激しい遷り変りがあったが、平和憲法の下に日本は平和を維持し続け、学問経済の発展に努力して広く世界に活躍し世界的にみて種々豊かな社会を築き、教育基本法が公布されて、教育の一大向上を来たし学問研究の成果を挙げている。・・・・・・この平和を永く保ち御遺族の方々にも私達にも幸多かれと祈ると共に戦没の旧知を悼む念が益々深きを覚えます。7)」

 また、ある卒業生からは次の言葉が聞かれます。

戦争は、勝っても、負けても互に必ず犠牲者を生ずる。過ぎし日、胸をふくらませて小松島の校門を潜った時は、戦争の犠牲者になろうとは夢見なかった筈だ。今となって、追悼の言葉を述べるとは、私にとって、何を言ってよいか胸苦しさを覚える。君達が生きていたら、どんな仕事をし、どのような活躍をしていたかを思えば残念でならない。私は五十才の峠を越えた。君達を思う時それは、若々しい昔の君達だ。80

 ある者は悲痛な心のうちを吐露する哀惜の言葉を搾り出し、またある者は発すべき言葉を失ってしまったかのように、とつとつと語っています。一文一文が、筆を執った者の辛く悲しい心のうちを明かしています。生きるための決意を伝える者はおりますが、生き残った喜びや、強運に恵まれた喜びを語る者はおりません。むしろ亡き友と共に生きてゆくことが叶わなかった不条理を解釈できずにいます。戦争が終わってみると、傍らに友がおらず、空白が生まれていたのでした。
 ある教師は、軍国主義教育の尖兵となったことを一生の痛恨事として反省し、己を責めています。当時の多くの教師と同様に、この教師も、国策に従ったこととはいえ、教育の場に軍国主義賛美の思想を持ち込み、戦争遂行の意義を教え子たちに説いてまわったのでした

 「昭和16128日大東亜戦争突入の宣戦布告をきいたとき、三十三才の若い東北薬専教授であった私には疑念批判はなく、ただその通りである文民として全力を尽そうと思った。・・・・・・終戦後やっと考えたように大東亜戦争で敗戦するとか、日本の侵略戦争であり自衛戦争でない等とはその時には考えもしなかった。そして、学生に対しては日本国民が生き延びるために、この戦争に勝ち抜くまで全力を尽そうといたけだかに言い、教室の授業にも軍事教練にも張りきった。
9

 敗戦後になって、あるいは今となっては、60余年前の戦争は自衛のための戦争ではなく侵略戦争であった、と言えますが、政府広報や大本営発表が偽りの報道を流し続け、国民の思想操作と言論統制が行なわれていた当時、一般の市民に過ぎなかった一介の教師が如何にして軍国主義体制に対して疑念を抱くことができたでしょうか。あるいは、たとえ、軍国主義に対する批判精神を心に潜めていたとしても、その批判精神を教育の場で明らかにすることなど、よほどの覚悟がなければできなかったでしょう。確かに、特高(特別高等警察)や憲兵によって国民全体が監視されていた状況下において、体制批判をぶち上げることは、発言した当事者のみならず、家族にも有形無形の弾圧が及ぶことに繋がりました。だからといって、官憲の抑圧的な発言・行動に顔を背け、唯々諾々と従ったことを弁護しようというのではありません。
 それにつけても、軍国主義教育あるいは配属将校の指導の影響でしょうか。幾人もの卒業生が陸海軍の航空隊を志願しております。当時、飛行兵を志願することは死を意味することに等しかったと思います。あらためて教育の影響の強さ、この場合は恐ろしさが痛感させられます。当時は、国家規模で、教育の場でも、マインドコントロールが行われていたのでした。ただし、このような発言は、今の世にいるからこそ言えるのであって、国民の絶対的多数が戦士の意気込みに酔い、苦難に耐えていた当時に居合わせたならば、同様に国家の扇動に疑問を抱かず、大本営発表の偽りの華々しい戦果に狂喜していたかもしれません。そのうえ、たとえ、戦争遂行という国家の愚行に対して、懐疑の念が生じていようとも、個人の気持などは押し殺さざるをえなかったのでした。まさに、狂った時代でした。
 九死に一生を得て戦地から帰還したある卒業生は、次のように述べています。

 「予備学生はよく戦った。そして実によく死んだ。当時は明らかに我々も消耗品であった。戦争への懐疑、軍に対する個人的な不信感、然し当時のミリタリズム的思想の中でそれは許されずそれらを超越して理屈ぬきで戦わざるをえなかった。・・・・・・乞食同然の二年半に亙る俘虜(捕虜)生活の中から人間という動物の醜い生き方を知るにつけ、厭世的になったのも私一人ではあるまい、などと昔も今も、悩んでいる私等年代のものを、死んでいった同期生は、あの世からどのように、眺めていることであろう。(97) 」

 生き残った者の脳裏から、戦争で斃れた旧知の人々の面影が消えることはありません。教師、同期生、そして先輩後輩との思い出が、戦後30年近くを経てもなお生き生きと伝えられています。海軍に志願したある卒業生は、戦死した同期生との最後の別れの様子を次のように伝えております。

 「昭和十八年九月十三日。それは私にとって、学業半ばでペンを銃に持ちかえて、祖国の運命に青春を賭け、勇躍海軍を志願し、土浦航空隊へ仮入隊した忘れられない日である。この日入隊した第三回生は、乾君、筒井君、蛎田君(以上戦死)、川合君、石ケ森君、小笠原君、上出君、松本君、新保君と私の十名であった。・・・・・・約半月の適正検査の結果、九月末発表があった。土浦へ残る組と館山砲術学校へいく組と二つに別れる。・・・・・・土浦組は乾君、筒井君、石ケ森君の三名。その夜乾君に「お前ともお別れだな、どうせ俺も後から行くよ。お   前先に行って待っていてくれ」。「 ・ ・ ・ ・」。乾君は物侘しい目で頷いた。それが彼との最後の別れであった。85)」

  航空隊に配属が決まったこの卒業生は、友の心の中に「物侘しい目」を残していったのでした。そしてこの友の心に焼きついた「物侘しい目」が消え去ることはありません。飛行機乗りになった彼は、友の心に刻印を押したままで、約1年3ヵ月後、昭和1912月に九州南方海面で戦死したからです。
 次の文面も是非伝えておきたいと思います。

 彼(武田亀助氏)は卒業と同時に土浦海軍航空隊予備学生として入隊され海軍少尉となって実家に帰られた時御逢いしたのが最後でした。  
 と云うのは・・・・・・昭和二十年八月終戦と同時に復員して亀助宅を訪問したところ、昭和二十年七月十二日本邦     東南方海上に於いて壮烈なる戦死を遂げられたことを伺い本当に残念に思いました。あと一ヶ月後でしたら御元気で復員されたのに・・・・・・。
105 括弧内筆者注)

 終戦があと一ヶ月早ければ、失わずに済んだ命。これも人の運命というものでしょうか。しかし運命として諦めるにしてはあまりにも酷い仕打ちとしか言いようがありません。そもそも戦争は人の手によって引き起こされたのです。愚かな人智が招いた不幸を運命のせいにすること自体が、神に対する冒瀆です。戦争を引き起こし、惨劇をもたらしたのは、人間であったことを、肝に銘じておかなければなりません。そして己もその愚かな人間に、あるいはそのような人間の手先になり得るかもしれないと思うとき、思わず戦慄が走るのを覚えます。あの狂気の時代に居合わせなかったことに、ほっと安堵の胸をなでおろしています。  また、昭和206月に沖縄戦で戦死した渡邊忠次郎教授[6]との思い出を伝える文面も多数見受けられます(23-24, 34, 74, 97, 100, 103, 107-108,109-110)。<8>「渡邊先生のように、たとえ役に立たない学生でも、自分のやっている研究の一端に足手まといをいとわずに、何かを見させ、体を動かさせ、学問の一端をのぞかしてくれる教官、それは数少ない宝玉のような存在になりつつある(100)といった文意の追悼文が幾つも寄せられています。この一文をもってしても、渡邊教授が如何に学生から慕われた教師であったかを充分に知ることができます。同教授の出征の様子については、次のように記されています。
 昭和198月、仙台駅前の広場で壮行式は行なわれた。学生たちはストームを組み、道行く市民も足を止め、そのストームの外に集まり、武運を祈ってくれた。その<8>「ストームの渦の中に一人深く頭をたれ塑像の如く直立する(107)渡邊教授がいた。「海征かば」を歌う「学生の顔は涙でぬれ、先生は肩で大きく泣いていた」。(107)

 「万才万才の声はホームにあふれ、無情にも告別の汽笛を鳴らし汽車は動き出す。車窓から半身をのりだした先生の手をにぎり肩にふれ、別れがたくホームを走る学生、線路にまであふれた学生達は涙でぬれた先生の顔を仰ぎながら手を振り学生帽を打ち振る。無言で答える車窓の先生、再び会うことのない永遠の別離、誰もがそれを感じていながら、あえてそれを否定し再会の可能性を望む空しい感情を残して列車の赤い尾燈はみるみるうちに小さく消えていった。107)」

 渡邊教授の戦死公報が家族のもとに届けられたのは、戦後二年を経た昭和2210月でした。仙台東照宮前にあった留守宅で、夫人と二人の幼児(2歳と3歳)を囲み、本学同窓生の有志によって告別式が行なわれました[7]。<8>「幼児二人をかかえ、渡邊氏戦死の公報を受けた奥さんの心中は、推察するに余りがある(24)と記されています。因みに、同教授が所蔵していた図書は、後に同窓会を通じて本学に寄贈され、現在も図書館で閲覧に供されています。そのうちの一冊、牧野富太郎著『日本植物図説集』(誠文堂、昭和9年)には、「渡邊文庫 同窓會寄贈」という蔵書印が見受けられます。また同教授が採集した植物標本は、本学ウェリタス6階 生薬学教室所蔵の植物標本展示棚に収められ、60余年を経た現在も学生の教育のために活用されています。

 

                         

恩師や先輩の出征、そして勇躍陸海軍を志願して学窓を後にする同級生を見送り、あるいは己自身にも赤紙(召集令状)が届けられる気配を感じながらも、学生たちは気概をもって日々の生活を歩んだのでした。学生生活を懐かしむ次の言葉が寄せられています。

 「・・・・・・更にしぶとくなると代返を頼んでおいて、こっそり抜け出し、裏山のイチゴ園で(今は昔日の面影もなくすっかり団地化してしまったが、当時は山林地帯でイチゴ園も数ケ所あった)腹一杯イチゴをむさぼり喰ったことや冥想の松の丘に登って共に青春を語り、未来を夢み合ったことどもが昨日のことのように思われるのである。[8]81

 土井晩翠(1871-1952)の作詞による本学校歌(昭和17年)の冒頭で「天才樗牛[9]の冥想松を見上げる丘上・・・・・」と詠われているように、冥想の松の存在は学生たちにとって、青春のシンボルでもあったようです。古くから天神山と呼ばれたこの丘の上に、同じく土井晩翠によって「いくたびかここに真昼の夢見たる 高山樗牛冥想の松」と詠まれた高山樗牛顕彰碑が立っていますが、まさに当時の学生たちも冥想の松の下で「共に青春を語り、未来を夢み合った(81)のでした。
  因みに、当時は、現在のJR仙山線の北仙台駅から東照宮駅に至る線路とほぼ平行に、さらに東照宮駅から小松島小学校の西側道路を経て、ほぼ本学の敷地の南側から西側(グランド、体育館)道路に沿って、北に向けて、中新田まで、軽便鉄道が走っておりました。小さな鉄道で、坂道(本学グランド西側道路)では乗客が降りて、車両を押したとも伝えられております。小高い丘の上には、樹齢600余年の老松が鎮座し、その丘の麓を小さな鉄道がゆっくりと、それでも一所懸命に、走っていたのでした。暖かな季節には、風光明媚な小松島池にボートが浮かべられ、寒い季節には、冥想の松が「雪後の松[10]となって、学生たちの心を和ませかつ引き締めていたのかもしれません。
  今の世でもありそうな情景ですが、それでいて、やはり一昔も二昔も前の様子が綴られています。ふっと、我が身を置いてみたくなるような長閑な、かつ羨ましい情景でもあります。因みに、高山樗牛顕彰碑が、現在は本学の敷地内になっている台原の丘に建立されたのは、昭和166月ですから、本学創設期の学生たちはこの顕彰碑の建立に関わる記念事業を見聞していたと思われます。
 また、時局を思わせる学生生活も伝えられています。

世はたとい、戦時色濃厚な暗い時代ではあったが、夢に充ちた角帽を頭上に、緑あざやかな小松島、逍遥する台原の澄んだ空気に、若い血潮は躍動していた。それが昨日のように想起する。○○大佐と軍事教練、出征農家への勤労奉仕、バン山植物採集、火薬廠、製薬工場の勤労動員、ガスの出ない実験室、仙台空襲、八・一五の玉音放送等々、苦しかったことほど強く思い出されるものだ。[11]108)」

しかし、学生たちは軍事教練や勤労動員の合間をぬって、薬学生としての知識と技能の習得を目指したのでした。特に、第1回生の奮闘を伝えておかなければなりません。第1回生が最終学年(3年生)を迎えたとき、既設の薬学専門学校と異なり、本学にはまだ薬剤師国家試験免除の認可が下されていなかったのでした。学生の学力のレベルを証する術がない新設校の悲しさでもあります。昭和16128日に文部省による学力試験が行なわれ、<11>「既設の薬学専門学校の成績と同等以上であったので(13)、本学は国家試験免除の薬学専門学校として認められたのでした。<11>「第1回卒業生より卒業生は総て無試験で薬剤師の資格を得るに至った(13)のでした。このときの猛勉強と快挙を懐かしみ、また誇りに思う声も寄せられています(74, 78)

「母校の名誉のため自分のため互いに励まし合って随分猛勉したものだった。第二回生からは卒業と同時に無    試験で免許証が下付されるようになった。1回生の功績は母校史上大書すべきことである。」(第1回卒業生U  氏)(74)

また学生たちは課外活動にも意欲的に取り組んでいたことが窺われます。現在の本学の課外活動からは消えてしまった部(クラブ)の活動状況も伝えられています。滑空班に席を置いた卒業生は次のように懐古しております。

「部員は大空をグライダーに乗ってあのトンビのようにスイスイと滑空してみたいと希望をもって滑空班に入ってきますが、そうは最初からうまくゆくものではなく、操縦技能と体験を重ねて、上手になりますので、先ず初級機から乗り始め、大型のV字形のゴム索を人力で引張りゴムの張力でパチンコ式に飛ばすわけですので、十二、三回位ゴム索を力一杯引張って、やっと機体に乗れる仕組みになっており、搭乗するよりゴム索を引く方が多いので相当の重労働でありました。103-104)」

 また、馬術部で活躍した卒業生は次の文を寄せています。

 「かくしてその成果は遂に昭和十七年の東北学生馬術大会においていかんなく発揮され、馬場馬術で個人優勝を  遂げ、又障碍競技でも優秀な成績をあげ、東北に東北薬専馬術部ありとその名を高からしめたのであった。82)」

 勿論、当時の滑空班や馬術部の存在は軍事教育に繫がる面もありましたが、学生たちは課外活動として、競技として、楽しんでいたことが窺われます。寄せられた文から、当時の部(クラブ)名を拾ってみますと、射撃班、銃剣術班、滑空(航空)班、柔道班、剣道班、弓道班、化学班、防毒班、海洋班、山岳班、スキー班、乗馬部、野球班、スケート班、庭球班、卓球班、陸上競技班、雑誌班、生活班、絵画班、弁論班、薬植班、音楽班といったものがあり、軍国調華やかなりし時勢を思わせる部名もみられますが、学生たちは、限られた環境の中で、それぞれに学生生活を享受していたのでした。やくざと渡り合い全身に包帯を巻いて登校した喧嘩の達人(戦死76)、長命荘から東照宮界隈を、我が家の庭の如く見做し、フンドシ姿で闊歩した豪の者(戦死77)、顧問教師の乗馬靴を無断で質に入れ、慌てふためく乗馬部の学生の様子も伝えられています(病死104-105)。個性溢れる彼らに生きていて欲しかった、と願うのは彼らの家族や友人知人だけではありません。この追悼誌を通じてであっても、彼らの存在を知った者ならば、誰もが心から、「生きていて欲しかった」、と願ってやまないでしょう。
  また、激動の青春時代に寄せて、次のような懐古の文も見受けられます。

 「よく昔の学生には夢があったと言われる。確かに当時の我々にもまだ夢があった。それは、徴兵検査、兵役という死につながる障壁が大手を拡げて待ち受けている厳然たる事実があったために、それまでの間に出来るだけ青春を謳歌し、一つでも何か仕上げたいという気持が物事に一途に熱中させ、且つ死を超越した未来への夢を抱かせたのではあるまいか。82)」

ただし、こうした懐古の言葉に続き、友の死を悼む次の文が添えられています。

 「このとき共に練習に励みこれを通じて友情を培った人々の中には又多くの戦死者がいるのである。この頃のことを想い浮かべると誠に懐しき極みでもあるが又一方新なる悲しみが湧いてくるのである。彼等も亦あの世の何処かで寄り合い互いに昔日の思い出にひたっていることであろう。82)」

 また、ある教師は、戦死した教え子との思い出を次のように伝えております。

 「戦没された学生諸君の顔が浮かんで、思い出は語りつくせないほどある。
・・・・・

  出征した後何ヶ月たったことであろうか。ある日突然「生家(岩手県一戸町)には挨拶に行かないが先生と一夜語り合いたくてまいりました。」と古水清隆君がたずねてこられた。いよいよ一人の青年が死に行くことを察し、つとめて楽しい話題の中で一夜を過ごしたことは今でも忘れることが出来ない。
 まもなく、アッツ、キスカの玉砕で散った彼のことが忘れられず、終戦の年の雪の深い日、私は一戸町の彼の生家をおとずれた。彼の父は既に死亡し母と嫁いでまもない姉の二人が彼の生家を守っていた。旧家の彼の家は大きく冬のさびしい北国の町は真にさびしい思い出のところであった。彼の母と姉が涙ながらに語る頼りにすべき子を失った家庭のいろいろな問題を沈みながら聞いたものだ。母と姉の姿を今も忘れられず終生忘れることの出来ない悲しみの思い出の一つである。
 将来を嘱望され前途に幸多かるべき青年を失った当時の悲しみは老いた私の心を益々苦しませる。想い出は戦没者の一人一人のありし日の姿となり浮かんでくるが、今は楽しい想い出としてのこるものは一つもない。37-38)」

 青春時代の懐古の念が悲惨な戦争体験に繋がる悲しみを、当時の学生たちは生涯抱えているのです。そして教え子たちを戦場に送り出した教師たちの心からも、その悲しみが消え去ることはありません。むしろ前途有為の青年の死を予感しながらも、為す術もなく見送り、己は生き残ったことへの慙愧の念が残るのでした。幾度も幾度も言われている言葉ではありますが、私たちが享受している平和な生活は、前の世代の犠牲のうえに築かれたものです。そして、一見すると、平和に見える現在の世が、いつでも悲惨な世に変わりうることを心に留めておかなければなりません。あの悲しく忌まわしい戦争は、つい数十年前の出来事に過ぎないのです。あの戦争を、私たちは遠い時代に、遠い所で起こった出来事のようにしか捉えていないのではないでしょうか。あらためて考えさせられます。
  最後に、次の追悼の言葉を伝えておきます。

 「祖国のために若き命を献げた級友の冥福を深く祈りながら筆を擱きます。

      見よ東海の空明けて  旭日高く輝けば
      天地の精気溌剌と   希望は躍る大八洲[12]
  
敗けるとは露知らず勝つことのみを考えていたあの頃、たとえ腕力で勝ったとしても何になろう。二度と戦争はした   くない。101)」

 

              

本原稿は、下記の「随想」原稿に加筆修正したものです。

松山雄三:『東北薬学専門学校 戦没者追悼誌』をめぐって、東北薬科大学「一般教育関係論集」22号、20093月、87-102頁。



 [1] 東北薬学専門学校戦没者追悼誌編集委員会『東北薬学専門学校 戦没者追悼誌』、非売品、昭和50年。同追悼誌からの直接引用と関係箇所は本文中( )内にその頁数を記す。

[2] 趣意書には昭和496月の日付が付されている。

[3] 戦争が遠因となって亡くなられた方もいるために、厳密な人数の特定は行なわず、余名とした。ただし、この追悼誌では、戦没者の人数は、教師1名、在学生と卒業生で40名(第1回生17名、第2回生8名、第3回生13名、第4回生2名)となっている。

[4] 第2回生(昭和154月入学)から第6回生(昭和194月入学)までの勤労動員の状況が記されている(14-17)。

[5] 長崎原爆での死亡者がいる(27,50)。

[6] 渡邊忠次郎教授は、生薬学教室の初代教授。昭和2062日に沖縄で戦死。戦死公報が家族のもとにもたらされたのは、昭和2210月。同氏所蔵の図書のうち約50冊は、昭和28年に同窓会を通じて本学に寄贈された。

[7] 渡邊忠次郎教授の告別式については、次のように記されており、同氏に寄せる教え子たちの深い哀悼の念を窺い知ることができる。「渡邊氏と親しかった東北薬専卒業生が主として世話をして、今は亡き遊佐寿助同窓会長が発起人となり、渡邊氏留守宅で告別式を仏式で行った。今八十九才の御長寿の奥野政蔵先生、高柳義一東北薬学専門学校理事長も列席した」。(24)

[8] 冥想の松に寄せる追憶は他の寄稿文にも見受けられる(101)。これらの追憶の言葉に触れると、次の事柄が思い出される。昭和25年に土井晩翠の文化勲章受章を讃える祝賀会が催されたが(於:東京、朝日講堂。日本詩人クラブ主催)、その席上で晩翠は仙台の台原に立つ樗牛顕彰の碑に触れ、その碑文「いくたびかここに真昼の夢見たる 高山樗牛冥想の松」を引用し、「大いなる真昼の夢をみよかしと老さき長き子等に望まん」と述べて謝辞の結びの言葉としたと記されている。本学の初期の学生たちが冥想の松のもとで「真昼の夢」を見ていた情景が髣髴とされる。参照、土井晩翠顕彰会『土井晩翠―栄光とその生涯―』、宝文堂、昭和59年、358頁。

[9]  高山樗牛(1871-1902)は明治時代の文芸評論家。

[10]  大灯国師(1282-1337 鎌倉時代の禅僧)の次の言葉が想起される。「雪後始知松柏操、事難方見丈夫心」(雪後(せつご)始めて知る松柏(しょうはく)の操、事(かと)うして(まさ)に見る丈夫の心)

[11] 文中の「○○」は筆者による。「バン山」は仙台市西方にある「蕃山」と思われる。

[12] 「愛国行進曲」(作詞:森川幸雄、作曲:瀬戸口藤吉)の冒頭の歌詞。